東京、渋谷・三軒茶屋のカフエマメヒコの井川啓央のラジオ「いかひこ深夜便」です。
きれいごとと言われてしまうことも、顔のわかる小さな組織なら実現可能です。 たとえば、ボクたちはお金のために働いてるんじゃないぞとか。 人に喜ばれることを第一にして努めていこうとか。 大きな組織では偽善に聞こえる性善説も、 小さなところなら十分な哲学として機能します。 いやむしろ、そうじゃないと小さな組織は難しいかもしれません。 スケールメリットもまったくないなかでの泥仕合が続くので、 哲学もないところでやっていくのは、バカバカしくてやってられません。 いつ無駄死にさせられるやわからないですから。 小さな組織。 ボクのところなんてもうミニマルですが、 小さいからさぞうまくいってるのかと聞かれれば、 なにをなにを。 ちっともうまくいきません。 やる気はある、一生懸命だ、スキルもある、 だけどイチイチ持ち上げないと拗ねる、 なんてみたいなヒトが混じったりします。 するとみんな疲れてきます。 良いところがあるんだけどねー、なんてヒトのほうが厄介です。 そーゆーのは、甘ったれたところがある。 明らかに仕事ができないなんてヒトは、 打たれ強かったりして頼もしいところがある。 困った局面のときこそ、リーダーであるボクが必要です。 なにが要るのか、なにが要らないのか、 局面ごとに決める必要があるからです。 「要らないヒトなんていないわ」、なんて声に逃げてはいけません。 風通しの悪い組織はカビます。 胸つぶれる思いは重々承知の上で、選ぶ必要があるのです。 決めないリーダーは逃げてるだけです。 非情なサイコパスがリーダーに向いているのは、 組織にとって決断がもっとも難しく、また大切なことを物語っています。 ボクはサイコパスではありませんから、 いちいち気持ちに寄り添ってしまう、甘っちょろい経営者です。 サイコパスならもっと稼げているはずです。 「おかげさまで何十年も同じメンバー、目立った波風立ったこともなく、 やれてきました」、 なんて老獪の経営者のはなしを聞くと羨ましいなと思います。 (それは幸運でしたけど、時代も良かったんですよね) と心のなかで嫌味を言いたくなります。 誰に相談することもできないので判断しかねますが、 小さな組織を運営するのもかなり大変です。 札束で頬をひっぱたけたらどんなに楽だろうと、思ったりします。 なににしても組織をまとめるのは苦労ですね。 どんなときでも笑って、笑って、です。
今日のテーマは、最近天才よち丸ラジオで取り上げられた『SLOC』について。https://youtu.be/IFPs470H_-U『SLOC』とは、SmallLocalOpenConnectedであることを目指すという行動指針のことです。これマメヒコじゃん!と、酒井さんは思ったそう。さて、インターネットはとてもOpenで、Connectedなものであると言えます。世界中の情報が集められ、その中から自分が知りたいことが検索できるようになったのも、物理的に遠くにいる人たちとコミュニケーションができるようになったのも、インターネットの素晴らしい働きによるものです。しかし、そのOpenさは良いことだけではなく、悪いことまで巻き込んでしまいます。結局今のインターネットでは、お金儲けをしたい人たちの欲望のままになり、品質の良さ、正しさなんてものは二の次になっているのではないでしょうか。マメヒコやいかひこで目指すOpenは、誰でもなんでも良いという意味ではありません。心を開放できる場所、としてOpenでありたいと思うのです。そんなSLOCな場所を引き続き目指していきます。
今日は、最近面白可笑ひこで取り上げたマメピコに使われているカルピスについて。カルピスウォーターとは、カルピスの原液を水で薄めた飲み物です。原液でも売っていますが、必ず薄めないと飲めませんから、ペットボトルでどこでも売っているカルピスウォーターの方がお手軽に飲めます。さて、カルピスの原液を作った人、カルピスウォーターを流通させた人。はたしてどちらが偉いのでしょうか?原液を作った側と、それを水で薄めた側では、この世の多くの人は後者の立場です。カルピスウォーターをもっとたくさん売るにはどんなCMを作ろうかとか、低コストにするためにペットボトルを変えてみるかとか、その人たちの関心はそちらに向いています。原液の味や作り方に興味を持つ人が少ないのは仕方ありません。たくさんお金を儲けることと、本質から離れないこと。どちらも両立させるというのは、やっぱり難しいみたいです。
今日のテーマは酒井さんの記憶に強く残る朝ごはん、朝ひこについて。なんと味噌汁はマグカップに入れられて出てきます。そのきっかけは台湾茶をマグカップに入れて飲むマグ茶。カジュアルに、シンプルに、ということを意識して作られた朝ごはんなのです。そんなに良かったというのなら、復活させれば良いのでは?と思うかもしれませんが、受け取ってくれる人がいなくてはどうにもなりません。何人来るのか、誰が来るのかわからずに通常メニューには載せられないのです。でも予約で注文が先にある特別メニューだったら、出来ることが少し増えました。丁寧に自信を持って届けられるメニューがあることは、スタッフにとっても嬉しいことです。と、いうわけで。実はこっそりひっそりマメヒコで定食が始まっています。機会がある方はぜひ食べにきてください。
ボクはいつもメッセージとして、 若いヒトたちに元気になれよ。 つまらない管理主義、全体主義に屈することなく、自分の頭で考えなさいよ。 嫌なことは嫌といえばいいのだ。 好きなことは好きといえばいいのだ。 「とはいえ、なになにだけでも」なんてことを言う大人を信用するな。 「最低限のことさえ守ってもらえれば」なんてやつの顔色を気にするな。 優しい顔してるが、こういうやつらは絶対に裏切る、信用するな。 君は君の人生なのだから、 今日も明日もあさっても、面白可笑しく生きればいい。 子供時代や青春時代は、大人になってお金を稼ぐための準備期間ではないのだ。 そんなくだらないことのために、貴重な時間を使ってはならない。 その日暮らしをせよ。 お金なんてものはただのモノだ、気にかけるな。 苦労はするだろうが、なんとかなるさ。 君の覚悟さえ決まれば、 些細なことを愉しめるようになる。 強い刺激でしか愉しめない友人と付き合うな。 友人は君を甘くする、弱くする。 そして一生金の奴隷になる。 そして一生不満をこぼして生きるようになる。 ただ、いつも健やかに。 機械が作ったものは極力口にせず、 誰かが君のために作ってくれたものを食べるのだよ。 なんてことをいつも色々言ってきたけど。 どうやらボクは、君たちに謝らなくてはいけないようだ。 もうボクの言うことを聞いていたら、この国では息苦しいばかりで、 生きるのも苦しいらしい。 志なく、流されるものだけが生き残る。 それも時代の変化、自然の営みなのだから仕方ないね。 君を窮地に追い詰める、そんな悪気はなかったのだ。 ただ。 ただ良かれと思って、励ましたのだ。 デタラメな社会では、よくよく考えていたら、 頭がおかしくなってしまうね。 流されて生きよ。 もう周りに流されて生きる、そんな時代なのだと諦めてほしい。
きっかけは先日の演劇「ぽうく」のワンシーン。 主人公の兄妹が深夜は何時から何時までのことを言うのか議論します。労働基準法の方を信じるのか、それともNHKを信じるのか。でもそもそも夜と深夜と明け方って、間にくっきりはっきり線を引けるものでしょうか?本来ボーダーレスだった場所に線を引いて、どのくらい得をするかを考えたりしている人が作る境界があります。そして、大きな声で「ここが境目です!」と言われると、なんだかそんな気がしてきて、むしろ自分から意味を探してしまったりします。でも、本当は違うはずです。境界はここと一方的に決められたものではなくて、誰かの自由と誰かの自由がぶつかるとき、お互いの話し合いの中で決まるものなのではないでしょうか。
閉塞感が漂う時代。 ひとり何かをして世の中が変わるじゃなし。 お金が入ってくるじゃなし。 気になることにいちいち目くじら立てても、血圧があがるだけで無意味。 コスパ悪し。 目立つことはしない。 余計なことは何ひとつしない、傍観と決め込む。 難しい連中とはなるべく避けて、 遠巻きに遠巻きに、自分に火の粉がかからないように生きてゆく。 めんどくさいことはごめん。 わかりません、知りませんでした、とひたすら乗り切る。 もらえるものだけはもらう。 損はしないように振る舞う。 そういう生き方がしたい、、、 そんな風に思うときがボクにはあります。 何もかもやめてしまったらどれだけ楽だろうと、 冷たく思うのです。 南国に一人旅して、そのまま、流れ着いた先で暮らしてもいい。 残してきた者たちはそれはそれ。なんとかそれなりに楽しくやっていくだろう。 そんなことを思うとき、大抵疲れているんだなと思って、 もう何もせずに寝ます。 そして寝て起きれば、 また繰り返しいつものとおりしている。 性分というものは変えられずにいて、 ため息が出ます。
5月の初めに上演した演劇「ぽうく」。酒井さんは今回お客さんとしてだけではなく、スタッフとしても参加してくれました。最近、演劇を観る人がどんどん減っているそうです。昔より演劇を理解する素養がある人が少なくなっているからなのか、演劇を観る余裕がない人が増えたからなのか。公演をする側はよりわかりやすく作ろうとするし、より観客が呼べる俳優をキャスティングしようとします。今、演劇の世界では負のループが起きているようです。今回の演劇には、多くのいかひこ塾のメンバーがスタッフとして参加してくれました。観客としてだけでなく、この演劇を作る当事者になることはとても楽しいです。みんなが集う口実としての演劇。これにはとっても価値があるのではないでしょうか。
収録の朝から、少し元気のない影山君。 長く付き合っているので、なんとなくわかります。 あっ、いやなことあったねーと。 こういうとき、彼は決まってとくになにかがあったわけじゃないといい、 だけど続けて自虐的な話をしてくれるのです。 今回もそうです笑。 なにもそこまで話さなくてもいいよってはなしをしています。 これは「ありのままの自分を見てほしい」という純粋な少年の気持ちの顕れでもあるし、 かといって、なにもかも赤裸々かというとそんなことはない。 大人としてのリップサービスだったり、フィクションだったりもするのです。 頭がいいですね。 ボクは常日頃、人間とはほんとうに複雑だなと思うのです。 何でもかんでも金や数字で勘定する世界の住人は、 人間とはツルンとしたムキたまごみたいだと思うでしょう。 シンプルなルールの上で勝った負けたとやっているのですから、 世界には説明のできないものなどないと思うかもしれません。 それは、そういう風に育ったからそうなってるのですが、 どっこい、年取ったりすると、 急に複雑なものに惹かれたりもするから、人間とは複雑です。 本当の人間は、善も悪もごちゃまぜ、 男も女もごちゃまぜ、美しいことも汚いこともごちゃまぜ、 神秘もエロスもごちゃまぜです。 ボクは自分の複雑さを持て余していて、少し絶望しているくらいのヒトのほうが好きです。 いびつな自分は、本当はどこに立っているのかさえ、よくわからない。 、、、美しいと思います。
半年間の準備を経て、先日劇「ぽうく」は無事上演されました。 いろいろな仕掛けを随所に散りばめて作りましたが、 ヒトによって受け取りかたは様々で、 ボクが好きに作ったように、受け取った方も好きに受け取ればいいと思います。 感想があればコメント欄に書き込んでください。
マメヒコを開店したころはどんな風だったか気になったという酒井さん。 初めて来てくれたお客さんというのは、実は全然特別なんかではなかったといいます。最初に来る人たちは、ただ最初を見たいという人たち。2回来てくれることも少ないし、この店の魅力を知ろうとなんてしてくれません。お客さんはおろか、スタッフだってこの店のことをよくわかっていないのです。では、いつこのお店がどんなことをやろうと思っているのかを理解してくれるお客さんやスタッフが来るのか。それは今もって実現できていないと言いますが、ちょっとずつちょっとずつ、井川さんのやりたいこと自体への理解をしてくれる人が増えています。ちょっとずつ、でしかないんですね。ブナの原生林を作るときにも、最初は白樺だらけの森からそれらが淘汰されていくのを待つしかないように。マメヒコというものがそれらしくなるには、想像以上の時間と労力がかかるようです。
世の中はこうあるべきだ、こうじゃなくちゃいけない なんて模範的なことを言ってるヒトに限って、 「自分は協調性がなく、集団行動苦手」なんて言ったりする。 そういうヒトは、自分の好きなように、どんなことをしようと勝手。 気ままに振る舞うことこそが自由であり、多様性だなんて言ったりする。 みんな多かれ少なかれそういうところはあるけれど、 みんなが模範としているヒトに限って、 えっ?それかよ?ってなるヒトが多いのは、 感覚ですが、偶然ではないような気がする。 まっ、そういうヒトに接したからといって、 ボクにとやかく言ってくることはないから、 (たまにありますけどね) へー、ふーんって聞き流すだけで、べつにほっときます。 あなた、間違ってますよ、なんてことは絶対に言わない。 間違ってるなんて言ったところで仕方ないし、 煩わしいことを言い返してくるだけで、ただただ、めんどくさいのです。 互いに気心知れてるヒトたちと、面白可笑しくやっていければいいのです。 今日はいまいちだけど、明日はみんなで今よりはましにしようよとなればいいのです。 世の中はそりゃデタラメで、 なんだかなーと思うことばかりですが、 それでもちょっとでも、明日はましになるように頑張っていくヒトたちと 手を取っていきたいのですよ。 あなたが頑張っているから、ボクも頑張る。 お金があるとかないとか、有名になるとかならないとか、 そんなことはどうでもよくて、 そんな風に爽やかな生きかたができればいいと思う。
何か情報を得る時によく使われる手段がGoogle検索になってから久しいですね。そこでは単純に情報が羅列されているのではなく、そのアルゴリズムや5つ星による評価で、情報に優劣がついていることも多いです。 Googleのようなプラットフォームで良いとされるものは、 関心を持ったり支持したりする人の"数"が多いものですが、 それは果たして本当に"良い"のでしょうか?ネット上で良い良いと持て囃されてる割に、粗悪なものであるケースはかなりあります。そして、そんな風に多くの人が関心を寄せた物が長続きしなかった、または人々の興味が失せてしまった、というケースもかなりあるのです。流行り廃りの世界から離れて、 少ない人数でのんびりと。そういう良さなら、長い間続けていくことができるのではないでしょうか。
いまからちょうど100年前ほど、 ドイツにワイマール共和国という魅力的な国家が誕生しました。 当時最も進んだ民主憲法のもと自由な思想に満ち溢れていたと評される理想国家です。 しかし、その共和国はわずか14年でナチ党によって終止符を打たれてしまった。 それを無念に思ったまま死んでいった革命家?、それがどうやら影山君の前世らしいのです。 なるほど、そう考えれば色々と合点がいきますね。 生まれ変わった現世でやり遂げられなかったことを実現したい。 しかし、この現世、またしても行く末は困難。 現世では革命家もいい歳をした中年となっています。 その志は捨てず、なにか打つ手はないかと模索しているのですが、、、 本人はこの物語を満更でもないと思っているのですから、 なんともおめでたいではないですか。 一方、ボク。 ワタクシはどうも、弥勒菩薩らしいのです。 56億7千万年の時を経て、コロナで混迷する現世に現れて、 この世を救いに来たということらしいのです。 なるほど、、、、そう考えれば色々と合点がいきます。 このデタラメな社会を立て直すために、 中年になりすました弥勒菩薩は、日夜たゆまぬ努力をしている。 いやーこの物語、まんざらでもないですねー。 えっ? はいはい、ふたりともなんともおめでたいと。 ワイマール共和国の革命家と弥勒菩薩は、 もう少し真面目に世直しをしなくてはいけませんかしら。 真面目にやっているつもりです。
今日は、最近のラジオでよく出てくるワードについて。都内にも温泉があります。地下を掘り進めていれば水が湧いてくることはありますから、湧いてきたお湯を浴槽に溜めているものを温泉とするならば、それを満たすものは都内でも作れるということです。さて、みなさんは「わざわざ遠出したり宿を予約したりせずに手軽に温泉を楽しめていいね!」と捉えますか?さらにいうなら、「もう湯布院や別府や草津に行く意味がないね」と思いますか?そう思ってしまうのも仕方ないのかもしれません。だって毎日家賃を払って食費を払って交通費を払って、生きるのだけで精一杯。娯楽に手間暇かけている余裕なんかないんですって。でも、そんな余裕のない人たちに、この場所に意味がないと言ってランドスケープを破壊されないように、この日本を統べる組織には頑張って欲しいと思います。
手塚治虫とディズニーを比べてみれば、 作品の室ははどちらとも遜色なく高いのに、 ことビジネスで比べてみれば、 圧倒的にディズニーのほうが稼いでいると。 どうも日本はアートはアート?と思う傾向があり、 それらをビジネスと結びつける力が弱いのではないか。 そんな影山くんの投げかけに対し二人で話しています。 んー、確かにそういう側面はありますね。 日本のエンターテーメントをビジネスにすべく、 プロデューサーを育てようとする大学があったりしますね。 日本はそーゆー面は遅れているから、 お金の視点をもっと持つべきだと、最近よく聞く言葉です。 投げかけに対するボクの考えは動画で話しているので割愛しますが、 補足すれば、ボクはなにはともあれ、ご縁だなと考えます。 マメクルはボクが車を運転し、 テーブルと椅子を用意し、珈琲を淹れ、お菓子を用意し、 三脚を立て撮影し、マイクで録音し、編集しています。 その撮影を縁あって一年近くお手伝いしてくれる女性がいます。 仕事を休んで参加してくれている彼女は映像のプロではないので、 ピントがぽけたり、音が取れてなかったりと映像としてのクォリティには ばらつきがありますが、そんなことは大したことではないのです。 マメクルをコンスタントに作れているのは彼女のおかげです。 ボクも、お店の傍ら、動画づくりに費やすための時間をスタッフから たっぷり与えられているので、体を壊すような無茶もしていません。 今回の撮影場所の川崎の等覚院さんも、 ご縁あって今回の動画を撮らせてもらえてるわけです。 『全てのご縁に感謝』 毎度、そんな気持ちなのです。ハハ。
今日の話は、酒井さんがClubHouseを使っている中での気付き。面白い話をすると思っていた著名人が、編集や演出抜きのコンテンツでは全然面白くない話をするということがよくあるそうです。一方このいかひこ深夜便はほとんど編集をしていない2人の会話が十分面白いものとして成立しています。この差は一体なんなのでしょうか?手を加えなくても、食材が良ければ美味しくなるように、演劇の脚本も、カフェも、YouTubeも、全部掃除の要らない良い素材を揃えられるように日々の生活を丁寧に送れば、沢山のものが産み出せるみたいです。そんな井川さんは今マメヒコで連ドラを撮りたいと考えているそうです。また出来上がる作品を見るのが楽しみですね。
マメクルと称してボクと影山くんと話をする機会を設けて幾年過ぎました。 かれこれ10年以上、のべ何百時間と話をしています。 ボクたちは、ただなんとなくの、ただ一度だけ縁があったそれだけの関係なのです。 どんな関係かと聞かれることがありますが、 友達というのでもないし、仕事仲間というのでもありません。 だから、いつ終わってもおかしくない関係なのです。 終わったからといって、どちらとも、とりわけ困ることもないのです。 そもそも始まる?終わるってなにという、なんでもない関係なのです。 けれど互いにかなり気を使いながら、育んできたなという思いはあります。 互いに気に障るようなことは言わないし、内側には立ち入らない、 そういうことは暗黙のうちに守っているのです。 親しい関係になってくると、それを言っちゃお終ぇよ、 ということを、あけすけなく言ってくるヒトがいたりします。 甘えからか、遠慮なく不機嫌になってみたり、切れてみたり、 もしくは、あたかもあんたのことなど見てないよ、 という冷たい態度で対峙したりするヒトさえいます。 ボクたちは一度もそういう風になったことはありません。 互いに会うときは、なるべくご機嫌でいようと努めているのです。 そして、笑おうと努めているのです。 招き入れるときは部屋をきれいにしておこう、 そんな心構えで、ボクはマメクルを続けているのです。 それをボクは愛ある関係と表現しましたが、 さほど大げさな表現だとは思いません。 ボクに限って言えば、そういう風に付き合えているヒトは影山くんのほかにいないからです。 ほんとうに愛ある、ふしぎーな関係なのです。
書籍ゲンロンの作者である東浩紀さんは、誤配こそがイノベーションとクリエーションの源であると言います。伝えたいことがその通りに伝わらないということを、肯定的に捉えているのです。意図した通りに伝えるためにどうにか整形したり、多くの人に伝えるために軽薄にしたりすると、それは悪い意味の誤配になってしまうのではないでしょうか。それを防ぐためには、ハイコンテクストでわかりにくいことであることが大切です。何を言っているのかわからなかった…と思う回もある井川さんのラジオですが、みなさんが共通の概念を持っている人ならば、長い時間がかかってもその意味や意図がわかる日が来るのだと思います。
現実は複雑です。 そして、その中で生きるヒトの心もまた複雑です。 ヒトが現実の複雑さに目を向けて生きるとき。 それは「物語る」ことでしか説明できないのです。 たとえば。 愛するヒトの「死別」と理不尽に直面させられたとき。 あなたは「なぜ、わたしがこんな目に遭うのか?」と思わずにいられるでしょうか。 そして「いったい、わたしが何をしたというのか?」と怒りを持たずにいられるでしょうか? 「わたしのセイだったのかもしれない」と責めずにいられるでしょうか? たとえあなたがいかに打ちひしがれようと、 それでもあなたは残りの人生を生きていかなくてはいけないわけです。 そのとき、 「これからわたしは一人でどう生きていけばいいのかしら」と問わずにいられるでしょうか? くよくよしてるあなたに、あなたの周囲はこう言うかもしれない。 「そんなこと考えても仕方がないよ。 何も考えずにただ、生きるのみ。 どうせ人間は、いずれ死んで灰になるのみなんだから」と。 そんなようなことを思ったり、忠告したりするヒトは少なからずいるものです。 しかし、それはボクから言わせれば、 不安の裏返し、ただ虚勢を張って見せてるだけ、 もしくは厭世的な心構えで人間をわかった気になってるだけ。 現実の複雑さに目を背けて、この世などなにもかも無意味なのだよという物語を生きる弱虫。 そんな風に、ボクは思う。 自分のそばに、今日も変わらずあのヒトはいてくれる。 やがて、自分も死んで、あの世で好きだったあのヒトにめぐり逢える。 だから、それまで、明るく、あのヒトの分まで生きよう。 あなたは自分の人生の脚本を書き、その物語を精一杯生きてください。 物語はけして、一部の小説家や脚本家のものではなく、 複雑な現実を生きるためには、誰にも必要なものなのですから。 辻褄なんか合ってなくていんです。 みんなから理解されなくてもいい。 強く非難されるかもしれないけど、それでもいい。 甘いファンタジーでもいい。 物語を馬鹿にしてはいけません。 物語ればこその、明るい人生なのです。
マメヒコを神社のような場所にしたい。以前もラジオでそう話していた井川さん。誰のためにあるわけではなく、 誰が作ったというわけでもない。 それでも誰かが周りを綺麗の整えたり訪れたりする場所である神社。その鳥居は大抵山と平野の間にあり、 いつの時代も煩わしい現世とあの世との境になっています。マメヒコもそんな場所にするべく、最近は財産となるものを集めています。 最初は、お食事会で使うお椀を買いました。一人で揃えるのは大変だけど、みんなで少しずつならできることってたくさんあるのではないでしょうか。みんなで揃えたお椀を使う次のお食事会がとても楽しみです。
日差しが明るくて穏やかな、 ほんとうに春のうららかな日に撮影ができました。 うららとは、もともと寛々ゆらゆらから来ています。 ゆっくりと急がずに、悠々とといった感じです。 言葉からもそれが伝わりますね。 大和言葉がボクはとても好きです。 ぼんやりとして、輪郭がはっきりとしない。 それがとてもいいのです。 岡倉天心の言葉をみなさんに。 よーく考えてみてください。 それでは。 ~~~~~~~~~~ この人生という、愚かな苦労の波の騒がしい海の上の生活を、 適当に律していく道を知らない人々は、 外観は幸福に、安んじているようにと努めながらも、 そのかいもなく絶えず悲惨な状態にいる。 われわれは心の安定を保とうとしてはよろめき、 水平線上に浮かぶ雲にことごとく暴風雨の前兆を見る。 しかしながら、永遠に向かって押し寄せる波濤のうねりのなかに 喜びと美しさが存している。 何ゆえにその心をくまないのであるか、 また列子のごとく風そのものに御しないのであるか。
目先の損得に一喜一憂するのはいけない、道徳的には納得しつつも、 実際のところは、目先のことに一喜一憂するのがヒトです。 物質的な財産を持たぬ庶民ならなおのことそうかもしれません。 だから財産を持つべきだ。金、土地、地位や名誉。 小さい頃から勉強するのも、 容姿が整っていることも、他に真似できない才能を持っていることも、 競争社会ですから、他者を出し抜かねば、まとまった財産を持つことは許されない。 みな財産のために頑張って今日も、みなさん生きておられるのでしょう。 だけど、財産とは物質的なものだけでなく、 精神的な財産もあるんですね。 毎日ご飯を一緒に食べる家族、 またそのような関係者との伝統的な行事、交遊、遊び。 精神的財産を築くためには、目先の損得に対して敏感では築けません。 他者を出し抜いてばかりではなおのこと無理です。 金品があればこその、交遊関係もあります。 でもそれではお金が失くなれば、その交遊関係は途絶えてしまうので、 心許ないですね。 金の切れ目が縁の切れ目なんですから。 物質的な財産と、精神的な財産のバランスを取ることが大事ですね。 両輪回ってこその人生です。 そしてその財産を次の世代に引き継ぐことこそ、中年オヤジの役割なんだと思うこの頃です。
今井川さんはいかひこ塾を地方でやりたいと思っているそうです。そしてそこでランドスケープを無視しない、その土地の伝統や文化を感じる。そんな新しい時代の日本の文化を再構築したいそうです。地方に活気を取り戻す為の取り組みは、既にいくつかあります。でも、それらが結局お金儲けが目的になってしまっていることが多いと思います。そうじゃなくて、人のわくわくするような感情を軸に何かする方が良いのではないでしょうか?まだいかひこ塾に参加していない人たちは、これに参加すると何が学べるかとか、自分がなんの役に立てるかとか、そんなことは考える必要はありません。楽しそう!面白そう!という気持ちを持ってきて下さい。きっとそういう人たちが、1番大きなパワーを発揮するんだと思います。
養老孟司さんが「人と動物の意識はどう違うか」について考察しておられます。 「朝三暮四」という言葉がある。 猿に「どんぐりを朝に3つ、暮れに4つやる」と言うと少ないと怒ったので、「朝に4つ、暮れに3つやる」と言ったら喜んだ、と。 猿には、どちらも「同じ」だということが分からない。 人間は意識があるので、ナシとリンゴは全然違うのに、同じ「果物」だとくくってしまう。 なんでも「同じにする」ことこそが人間の持つ意識の働きなのだ、 と養老さんは言っておられます。 その意識のおかげで、人間は「言葉」も「お金」も使えるようになり、 丸めて考えられないヒトは下等な生き物だとそう考えるんだというんですね。 一方で、その「意識」は、「自然」「子供」のように、結果がわからないものを敬遠する傾向がある。 そしてノイズの多いものに対しても、触れたくないとするのです。 思い当たるヒトがいっぱいありますよ。 さもありなんで、すぐに誰かを非難するヒトは、 なんでも丸めて考えるからでしょう。 こうするのが常識、こうするのが当たり前。 事情やそのヒトの性格も考えもしないで、 それを押し付けるのは、なんでも丸めて考える人間の意識の仕業なのでしょう。 そして細かいことを気にしている子供は、下等な動物だと思っているのでしょう。 でもですよ。 そういう風に振る舞っていたら、遅かれ早かれ行き詰まりますよ。 まぁ行き詰まってから、考えればべつにインですけどね。 いつもいつも意識の中だけで生きているのは、現代病である、 養老さんはそうおっしゃっていました。 ボクもそう思います。
ダンディズムの祖と呼ばれているジョージ・ブライアン・ブランメルの言葉に「通りで振り返られたら、君の装いは間違いである。」というものがあります。派手な色を上手に着こなしたり、オシャレだねと人に言われるようなファッションではなく、何も思われないということを徹底するファッションが酒井さんが目指すものらしいです。マメヒコにもすごく丁寧にこだわっているけど、誰にも気付かれないようなものがあります。気付かれないのに、やる必要はあるのでしょうか?もちろん、それがオシャレですから。
話の成り行きから、岡本太郎さんと岡本太郎さんを愛し続けた、太郎の妻・敏子さんの話になりました。太郎さんを肯定し続けた敏子さんの言葉です。「愛はケチしちゃ、だめなのよ」「自分だけの問題なの。あふれる愛を人から与えてもらおうと思っても、それは無理」「愛している。好き。何かしてあげたい。それだけでじゅうぶんじゃないの」「一人の女がこれだけ心の底から尊敬し、慕い、全存在を賭けているということは、男を力づけないはずはない」「ああ、それは素敵ね。やれば。私は見ている。あなたがやるのを、見たいわ」「『私のこと愛してる?』とか、『どのくらい好きって?」って。だいたい、そんなこと問いつめてどうするの」「素敵な男でなければ、女はつまらない。男をそういう、魅力的な存在にするのは、実は女の働き、役目なのよ」「女性が、男の人のはなしに心から耳を傾けること、『うわぁ、素敵、それで?』と 眼を輝かして夢を聞いてあげること。それだけでいい」「一人の女がこれだけ心の底から尊敬し、慕い、全存在を賭けているということは、男を力づけないはずはない。私は秘書として有能でもなく、芸術家でもなく、いい女でもなかったが、あらゆる瞬間に自分のありったけのものを注いだということは胸を張って言える。出し惜しみはしなかった」果たして、ボクはとし子さんになれるだろうか?
皆さんコスパが良いものは好きですか? それは、コスパが良いから好きなのでしょうか。 もし価格が高かったら、好きじゃないと感じるのでしょうか。 世界中で都市化やグローバル化が進むに連れ、 人々の間で何かを共有するということの価値がどんどん薄れてきました。 そういう価値観や感覚が養われなくなって、 もはや価格でしか物事を判断できない人は増えてしまったのかもしれません。 何処かの誰かが利益のために生み出した価値観より、 自分自身がどう思ったかの感覚を大切にしたいと思います。
稽古とは一より習い十を知り 十よりかえるもとのその一 これは千利休の言葉だそうです。 稽古とは一から二、三、四、五と順を追って十まで進み、 そして再び一に戻って二、三、四、五とまた進むという意味ですね。 茶道を習うと、一度十まで進んで、 そしたらまた再び一に戻って習い始める。 だけどおなじ一なんだけども、心持ちが違うよねと。 ボクらもこの言葉どおり、カフェをやっているわけですが、 結局、いつも同じ繰り返しなんだけど、 やっぱり見えている景色は違うんですね。 また一から始めなくちゃいけない。 とくに今のような状況ですから、ああ、また創業なんだなとボクは思います。 いやだな、めんどくさいなと思いますよ。 けど、いままでの経験、財産を踏まえての創業ですから、 同じ一では無いんですね。 そういう心づもりで、今年は臨みたいです。
ひょんなことから始まったいかひこ深夜便。 なんと1周年を迎えました。 最近酒井さんはある小さなお店をやっているそうです。 小さなお店をやっていると、大小様々な障害が出てきます。 でも、ここで正面から戦いを挑んでは、大きなところに負けてしまいます。 "戦"いを"略"すと書いて、戦略と読むように、 小さくやっていくことは、どうやって戦わないかということだと言います。 お冷グラスにこだわったり、トイレを毎日清潔にしたり。 大きなところにはできなくて、でも自分たちにはきちんとできることで勝負していると、 その中に魅力を感じたお客さんが来てくれます。 小さく長く続けるのに必要なのは、戦いの勝ち方ではなくて、センスある戦いの逃げ方なのかもしれません。
プロレスを知らないヒトに、ヒールターンを説明します。 これまで人気者だったベビーが、嫌われ者のヒールになることをヒールターンっていうんですね。 ハルク・ホーガンは、赤と黄色の衣装に身を包み、 子どもたちに大人気だったベビーでしたが、 ある日を境にヒールターンします。 その日は試合中に味方の選手にレッグドロップを見舞い、 相手チームを勝利させました。 その翌日から、ホーガンはこれまでの赤と黄色の衣装から、 黒い衣装を身にまといヒールに転向したんです。 このホーガンのヒールターンはビジネス的にとても効果があり、 グッズは売れに売れたそうです。 けど、ビジネスだけじゃなくて、 なにかホーガンにあったんではないでしょうかね。 ずっと自分の本性とは違う仮面をかぶり続けることは、 とても苦しいことです。 そして、だれも自分に気づいてくれない、それは孤独だと思うんですよね。 バンと出せればいいですけどね。 たとえ気づいたとして、その本性を出すことはまた難しいですわ。 これを機に影山くんはハルク・ホーガンになれるのか。 みんなで温かく見守りましょう。
酒井さんや井川さんにとっての渋谷とはどんなものでしょうか。 井川さんの世代では、渋谷は若くて自由なものが集まる場所でした。 そこにだんだんブラックカルチャーが流れ込み、 綺麗に整備された町並みと、その裏にあるアングラの闇が共生する街に変わりました。 有名チェーン店がひしめき合い、行政主導でカルチャーの発信地とされている渋谷。 そんな場所でマメヒコを続けるのは簡単なことではありません。 マメヒコを渋谷で続けるにはどうしたらいいのか。 マメヒコが渋谷にある意味とは何か。 今改めて、見つめ直さなくてはいけないようです。
Facebookをやめました。アカウントごと削除したんです。 まぁそれだけのはなしをあえて動画にすることもないんですが。 何を選ぶか、というのは難しいですけど、 何を選ばないか、というのは割合と簡単に自分と向き合える方法ですね。 いまやっている動画は、みなさんがコメントをくれるかぎり、 楽しく続けさせてもらおうと思います。 これからもよろしく。
世界的な傾向なんだそうです。 売れるためには、ひねりなんかを効かせるよりも、 《わかりやすい》、《つかいやすい》ことが 重要なポイントなのだと。 音楽であれば、わかりやすいリズム、わかりやすい歌詞。 小説でも映画でも、 小学3年生でも理解できるように、 わかりやすく書いたり作ったりするほうが「売れる」と。 どんな素晴らしいものでも理解されなければ、 何の価値も提供できていないですからね。 より多くの世代に受け入れてもらえるよう、 《わかりやすい》、《つかいやすい》を心がけるのがプロなんだそうです。 となるとですよ。 そういえばあなた、人気ものになりたいと言ってましたよね? お金を稼ぎたいみたいなことも言ってなかったっけ? だったら、《わかりやすいヒト》、《つかいやすいヒト》でなければなりませんね。 見た目もわかりやすく、《かわいい》、《かっこいい》、 経歴もわかりやすく、《高学歴》、《高収入》。 そうやって、人気を得るために、《わかりやすいヒト》、 《つかいやすいヒト》になる努力を弛まずしてください。 どうしたの浮かない顔して。 「やってみたけど、無理だった」 「いまのワタシのままで、人気が得たい」 は?何いってんの? それは無理でしょう。世界的な傾向なんですよ。 あなただけ特別扱いするなんてできません。 「どうしたらいんですか?」 どうしたらいんでしょうね。 難しい問題です。 どうしたらいいかわかりやすく教えてくれるセミナーがあるそうですから、手っ取り早くまずは参加してみたらいかがでしょうか?
最近美味しんぼのアニメがYouTubeで毎週1話ずつ配信されています。それを見て、美味しんぼにマメヒコに似た美意識を感じたという酒井さん。昔の日本では道徳によって人を束ねていたとすれば、今はグローバル化に伴って、ルールで束ねられるようになりました。でも、美意識はルールに出来ません。ルールに従うだけの人や、ルールに則って自分の仕事を減らそうとする人。そういう人たちには、ランプの傘に積もった埃は拭けないのです。ベルリンの壁崩壊以降、なくなったと思っていた共産主義。実はそれは形を変えて根強く残っていて、気づけば誰も彼も働きたくないということが前提になり、働きたくない人たちのためにルールがたくさん出来てしまいました。そうではなくて、人々のモラルや美意識で動くような町を作るという井川さん。なんだかワクワクしますね。
マメヒコに興味が持てなくなって、 「こんな店、どうにでもなれ」とほっといた時期がありました。 ところが親がなくとも子は育つ、とは言ったもんで、 ボクがいなくても勝手にマメヒコは育ったわけです。 育ったというのは、マメヒコらしさみたいなものが育まれたという意味です。 じゃあ、誰が育てたかっていうね。 スタッフの中にボクに代わるリーダーシップを持ったやつが現れたとか? そうじゃないんですね。 お客さんが店を育てたんだと、ボクは思ってるんです。 うちのトイレはいつもきれいですけど、なんでそんなにきれいかって言ったら、 それはお客さんが使うたび掃除してくれてるからなんですね。 店のオーナーがやることなんかとくにないや、 今でもそう思ってるのはそのときの体験があるからです。 なんか始めようと思ってるなら、とにかく早く扉を開けたほうがいいよ、 歩き出したほうがいいよ、と言いたいのね。 やってみなけりゃわかんないんだから。 ボクだってまさかお客さんがトイレ掃除するとは思わなかったわけでさ。 ボクにもなんかやりたいんだけどって相談するヒトがたまに来ますよ。 もちろん話は聞いてあげます。 こうしたらってアドバイスしたりもします。 水だけは差さないようにする。 だけどなかなかやらないね。 やるリスクもあるけど、やらないリスクもあると思うけど。
美味しいものとはなんなのでしょうか。トルコ人にとっては飲むヨーグルトはしょっぱくなっているのが当たり前で、甘くなっているなんてありえないことだったり、ある人にとってはコンビニ弁当こそが母の味を感じるものだったり、みんな味覚で感じているといっても、美味しいと感じるものについては人それぞれ。味覚は絶対的なものではなくて、子供時代の体験や、何かからの情報によって大きく左右されてしまうものなようです。お互いどう感じてるかは確認できないけれど、美味しいねと一緒に言いながら食べられる人たちと食事をすること。それは食べ物自体の美味しさよりもずっと大切なことかもしれません。
いつもなにかしら不満があるヒトというのがいます。 そういうヒトは、どこに行っても同じです。 なにをしてもいつもおんなじような状況になって、 周りが悪い、環境が悪いとなってしまう。 単純にまわりとうまくコミュニケーションが取れていない。 だからぐるぐるぐるぐる、いつまでもおなじところを回っている。 そういうヒトは、臆病なヒトなんですね。 怖がって、色んなヒトとつながれない。 だからただ慰めてくれるようなヒトと付き合って、またぐるぐるしてしまう。 とにかくね、怖がらずに、あっ面白いなと思うヒトを見つけることですよ。 自分にとってどんなヒトが面白いのか。 それを知ることです。 その面白いヒトがわからない?わからなくなった? それはとてもつらいですね。 あぁ、と思わず声が出てしまいますね。 よくわかります。 わかりますが、なんとかするしかないのです。 いまのままでいるほうがよほど辛いのですから。 よく痛い目に遭わないとわからないといいますが、 怖がりのヒトが痛い目に遭えばこじれるだけです。 もし幸運にもなんとかしてくれそうな面白いヒトがいたら、 そのヒトについていきましょう笑。 ──なんてね。 占いとは、人間観察の統計なんだと思います。 だから占い師じゃなくても、たくさんのヒトを見てるカフェオーナーは、 占い師のようなものなのです。 そうじゃなきゃ、あっという間に潰れてしまいます。
今の時代、物が溢れています。 ただ良いものを作れば物が売れる、という訳ではありません。 売るシステムを作った人たちだけがお金を儲けている。 そのように感じてしまいます。 マメヒコでも、もはや物を売るというだけでお店は成り立たなくなってきているのです。 そんな中でも去年、客数が減って静かになってしまったマメヒコにも通い続けてくれた人。 そして今年もマメヒコの変化に一緒に着いてきてくれる人。 そんな人たちがマメヒコにとってのいいお客さんかもしれません。
新年あけまして、おめでとうございます。 さて、丑年の今、ボクラは歳男です。 1973年生まれ、48歳になります。 1973年に生まれたボクラの数は209万1983人です。 1971年から1974年までの「第二次ベビーブーム」と呼ばれる期間のなかでも一番の多さです。 第二次ベビーブーマー世代、団塊ジュニアなどとも呼ばれています。 以下1973年の特徴がWEBに出ていたので紹介します。 === やたらとクラスの数が多かった世代です。 小学校から高校時代、1クラスあたりの生徒数は45人程度で教室内は常に満員でした。 だからいつも競争にさらされ、高校も大学も、受験戦争がとても激しかったんです。 バブル経済が最高潮の頃は中学から高校生時代を過ごしており、 高校卒業後は自分もあなるのかと思っていたところで、あえなくバブルは弾けてしまいました。 せっかく厳しい受験戦争を乗りきってようやく大学生になったのに、 既にバブルは弾け、平成不況へ突入していったのです。 だから就職は「氷河期」で、いい思いなんてしたことがなかったんです。 その経験からかこの世代は「真面目で堅実」です。 しかし、好景気のなかで厳しい競争に晒されることもなかった先輩や上司に対しては、 大した実力もないのに楽して良い立場にいるだけの無能な人間に見えてしまい、 苛立って仕方がないところもあるのです。 そして、ほかの世代よりもこの世代は醒めています。 極めて現実主義なんです。 バブルの崩壊で天国から地獄に落ちた人を見たり、 自分も就職氷河期と不景気を味わい、運よく就職できても会社内で酷使され、給料も上がらず、 転職先もないという辛い経験をしてきたせいかもしれません。 === なんかなんにも良いことがなかったように言われると、悲しい気持ちになりますね。 今年もマメクルをよろしくおねがいします。
今年最後のマメクル。来年のお芝居の話です。 ==== 劇「豕(ぽうく)」作・演出 井川啓央 出演ユイ・・・・池田玲菜ヤスオ・・・永井宏佳教授・・・・金澤洋之サトコ・・・小原あゆみトントン・・まあさ パトラ・・・小西奈津子ボス・・・・佐渡島庸平2021年、新作舞台の上演が決まりました。 とある国家。謎の寄生虫が発生していた。寄生虫にかかったユイとヤスオの兄妹。権威者たちは管理社会を築くため寄生虫のはなしををでっちあげたのだった。そうとも知らず兄妹は命をつなぐためタブーに挑む。2021年歴史の転換点に発表する問題作。マメヒコの井川啓央の新作劇『豕(ぽうく)』、ぜひご来場ください。
マメヒコ渋谷店の人気がピークだったのは2010年頃。毎日沢山のお客さんが列を作っていました。 渋谷にこそ、こんな店が必要だという人がきっといるはずだ。そんな想いでやっていました。 でも、残念ながら来る人の多くが惹かれていたのは、CAFE Mame-Hicoとしてのメッセージや哲学ではなかったのです。 しばらくすると渋谷の再開発が始まり、人気のピークは過ぎていきました。 それでも今日もマメヒコは営業しています。お店を続けて欲しいと思う人がいると、お店はどういうわけか続いていくものなようです。
ひとりひとりやりたいこと、得意なことは違うよね、お犬さん。だから社会的な立場など気にせず、好きにやったらどうよ、お犬さん。「お前らのみたいに喫茶店のオーナーの立場だから、好き勝手言えだろうさ。教師だの医師だの、役場の人間だの、みんな好き勝手、自由気ままに振る舞ってたら社会はどうなる?どう考えたって立ち行かなくなるじゃないか。いい年して、そんなことにも気が回らないのか。所詮、喫茶店のオーナーなんてのはその程度の連中だわな」あんまりキャンキャン吠えるなよ、お犬さん。要するに、吠えるってことはだな、それだけ、あんたいまの現状に苛立ってるってことじゃないか?苛立ってなきゃ、そんな牙出して噛み付くはずないもんな。お犬さんは、おかしいに気づいてる、遠く狼だった時の記憶が疼いてる、そして居ても立っても居られなくて、やるせなくて暴力的になってるんじゃないのかね。あたかも正論ぶって、キャンキャン吠えちゃいけないよ。もっともらしく暴力ふるってんないよ。みっともないよ。 最終的にはだ、ブーメランで返ってくんのは、お犬さんあんたのほうさ。ルールに合わせることに飼い慣らされちまって、ほんとは何がしたかったのか、どうしようと思っていたのか、そういうのなくなっちまったんだろ。お犬さん。あんた、職場でもやれやれって顔して働いてるんじゃないのかね。んでもって、煙たがられたりしてるんじゃないのかね。不機嫌そうな顔してるけど、体壊すような不摂生してるんじゃないのかね。えっ?ああ。もちろんとも、もちろんとも。ほっとくよ。ほっといてるさ。お犬さんは、お犬さんの生き方をすりゃあいい。お犬さん一匹がどう吠えようと勝手だよ。けどね。けどだな。そんなお犬さんに似た連中が、群れとなってキャンキャン吠えるのは、都合よくないや。子供たちが怖がってしまう。世の中には、少しでも世の中を良くしたい、少しでも明るく温かい社会にしたいと多くのヒトが思ってるんだよ。そしてお犬さんにも加わってもらいたい。オイラ?オイラも毎日、ほんと明るくて温かい社会になるように、そう思ってるさ。だから、噛みつかないでおくれよ。噛みつかないでおくれよ。今度噛み付いたらぶつからな、こっちだって痛いんだ。できるだけ仲良く、明るく温かく仲良くしようじゃないか。
ボクはドラマ「北の国から」が好きです。そのことはいままでも、あちこちで話してきました。 「北の国から」を見たせいで、テレビ番組を作る側に回りたいと思ったし、それを無理だと諦めてからも、マメヒコというカフェでなんとか「北の国から」に近づきたいと思っている、そのきっかけになった番組であることは間違いありません。 ではその何が好きなのかと言うと。それはここで初めて明かしますけど、番組が好きというのではなく、北の国からを撮影したカメラマンの竹越由幸さんの仕事に対する姿勢そのものに打たれているのです。打たれっぱなしなのです。 越さんと呼ばれた竹越さんの仕事に対する姿勢。それは北の国からのどのシーン、カットからも感じられます。 そんな素晴らしい仕事をなされた竹越さんを、あまり知るヒトはいないんじゃないかな。それがまたボクの胸を打つのです。 1シーンずつ作られた画は、過酷な撮影スケジュールの中で、どれだけ準備し、そして苦心して出来上がったものかは見ればわかります。 それが各セクション全体に緊張感を生みだし、あれだけの名作ができたのでしょう。(想像しているだけで実際のことは知る由もありませんが) なんていうか日本人てすごいな、すごい仕事をしているな、とボクはずっと感動しているのです。 きっと竹越さんはいまのボクと同じくらいの歳で、あぁいう作品に関わられたことでしょう。そのことにボクは今持って嫉妬したり、焦ったりしているのです。
少し前までマメヒコで出していたグリーンサラダ。とてもシンプルなサラダで、ドレッシングはつけずにオリーブオイルとバルサミコ酢と塩胡椒を一緒に出していました。酒井さんはこのメニューにマメヒコらしさを感じたそうです。机にだされたものを、自分用にアレンジして食べる。これが出来る人は、案外多くありません。用意されたものを用意された通りに食べたい、アラカルトよりもコース料理の方が好きという人は、グリーンサラダもドレッシングをかけておいて欲しいと思うでしょう。同じグリーンサラダでも、食べた人によって感じた味が違う。そういうものの魅力が伝われば良いなと思います。
中年のおじさん二人が、秋の公園でぼやいています。 「いちいちお金かかるんすけどね」。なにか考えがあって、考えがなくても、行動しようとするとき、お金がかかります。どんな良い考えだろうが、悪い考えだろうが。電車に乗る。お茶を飲む。おまんじゅうを食べる。小さなスプーンを買う。雨風しのいで寝ましょう、ってだけでもお金はきっかりかかります。とにかく、いちいちお金がかかります。そのいちいち、いったい誰が払うんでしょう?「プロジェクト経費として、しかるべき処理をすればいんでは?」あーた、なに眠たいこと言ってんの?なにもかも勘定科目に照らし合わせて処理する、そんなことできっかよ。「うちは細かいとこまでちゃんとやってるざます」あぁ、そうっすか、ご苦労さまっす。スムーズに物事を進めるため、時間を節約するため、みんなの志気を上げるため、そのいちいちに、ちょっとしたお金はかかるものなんです。とくにね、新しく何かを始めるときは、見通しが立たないためにお金はジャンジャン出ていきます。まったくもって遠回りだった、無駄道だった、引き返そう。 途方に暮れることが多く、気持ちの落ち込みに合わせて、いちいちお金がかかるものなのです。とにかく、いちいちお金がかかります。そのいちいち、いったい誰が払うんでしょう?覚えておいてください。道なき道を歩むとき、かかるコストは旗持って先頭歩くやつが払うものなんです。旗を持って先頭歩いたこと無いヒトには関係ありません。払うだけ馬鹿らしいお金です。「旗を持って歩いてる、その名誉を金で買ってるってことね」あへた、まだ眠たいこと言ってるの?目ヤニついてるよ。そういうことじゃないわけよ。 まぁ、いいわ。新しいことを始めるには、そのいちいちにお金がかかり、旗持って先頭歩いてるやつが払うということだけ覚えといて。「旗持って金まで払うなんて馬鹿らしい」いやいや、ほんとそのとおり。その後ろをついて歩いて、文句言ってるのが一番てはなし。
酒井さんがレストランで働いていたときに読んでいたのが、中谷彰宏さんの書いた「レストラン王になろう」という本。この本に出てくる人の中に、井川さんと共通した思いで働いている人が何人も出てくるそうです。このシリーズで取り上げられているホテルやレストランと違って、カフェでは、スタッフによって役割がはっきり分かれていません。これは私の仕事ではない、とは言えないのです。その分、お客さんにおいしいと褒められたら自分の事として喜ぶことができます。お店にいる人の、その人らしさが光る映画的な瞬間。それが、区分を作らない東京の小さなお店でできるおもてなしなのではないでしょうか。
植物学者の中尾佐助さんが提唱された「照葉樹林文化論」。 ヒマラヤ山麓から中国西南部、そして西日本に至る一帯を「照葉樹林帯」と捉え、その一帯は文化的にとても似ているという説です。 ボクはをこの説にとても共感し、さらに身の回りの植生にもとても興味があります。 たとえばカシとナラ、どんぐりって二種類あるんですよ。あっ、そもそもね。 どんぐりっていうのは、「どんぐりっていう木の木の実」なわけじゃないんだよ。 ミズナラ、コナラ、クヌギ、これらはナラ広葉樹のどんぐりね。アラカシ、シラカシ、アカカシなどはカシ照葉樹のどんぐりです。 さらにいえば、東日本はナラ広葉樹の林が主体で、西日本はカシ照葉樹の林が主体なんです。だから宮沢賢治のどんぐりは岩手だからね。広葉樹のイメージだよね。金色のどんぐりが山猫と話をするんだもんね。 マメクルは広葉樹林の多い公園を選んで撮っているのはそのほうが明るく映るから。照葉樹林帯の多い公園では、映像が暗くなってしまうよ。ときどきマメクルの話題に出てくる国分寺崖線は照葉樹が多くて、 暗くじとっとしているのね。 ボクは散歩が好きで、そういうことを気にかけてずっとしてるんだよ。
純文学はどう伝えるかを大事にしているもので、大衆文学は何を伝えるかを大事にしているもの。このように解釈している酒井さんは、マメヒコは純文学的で、クルミドコーヒーは大衆文学的だと思ったそうです。それに対して井川さんは、マメヒコは甘いものだけの大衆文学ではなく、苦い薬だけの純文学でもなく、糖衣錠のような”民衆文学”であると言います。井川さんが伝えたいことはそのままだと刺激が強いので、全然関係ないことでぼかしたり、面白い話で包んだりしないと、なかなか人には届かないようです。受け取る側は表面の楽しくて面白いところだけでなく、最後に残る苦い本質まで忘れずに味わいたいですね。
特に渋谷、もうボクラのお店にお客さんがこぞって来ることはないと思います。 なので、映える、メニューをやめました。 ボクラにとっては、ばえ、のために犠牲になってたことっていっぱいあるんです。 もっと丁寧に、もっと親密に。 そういうふうにやっていきたいんです。 これが功を奏すか、いなかはやってのお楽しみ。 毎年話題になる焼き林檎、今年は予約を受け付けるようになりました。 すると予約がバンバカ入るんですね。 ありがたいです。 新しい世界の幕開けです。
約1ヶ月前に新しくなったマメヒコのメニュー。フレンチトーストが新しく登場しました。さっと卵液をつけて焼いたパンを沢山の野菜と一緒に食べるものなので、よくイメージされるフレンチトーストとは少し違うかもしれませんね。家賃の高い東京に出しているカフェで沢山の野菜を使うのは、簡単なことではありません。野菜はたくさんあっても調理する間にかさが減ってしまうので、高くついてしまうのです。その結果、街には必要以上の炭水化物が溢れています。それでもマメヒコは諦めずに、良いものを出せるような工夫をしていこうと思います。そのうちの一つが予約制。是非、来る前にスタッフにフレンチトーストを食べたいと伝えてください。美味しい野菜と、焼きたてのフレンチトーストをご用意してお待ちしています。