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富山県や石川県の辺りでは「堅豆腐」と呼ばれる「枕に使える」とか「つまづいたら生爪が剥がれる」とまで喩えられるほど極めてしっかりした豆腐が作られています。地元の方はオススメの食べ方として、この地方にある甘めのお醤油とワサビで頂くというのの他に「ゴーヤチャンプルー」も挙げていました。一見不思議に思えますが、この堅豆腐のルーツを紐解いていくと、意外に納得出来たりするのです・・・。
五箇山という場所は白川郷からさほど遠くない場所にありますが、こちらは富山県。対する白川郷は岐阜県です。しかし江戸時代、この五箇山という場所は不思議な事に加賀藩の飛び地でした。実は加賀藩は江戸時代の間、この五箇山で火縄銃や大砲に使用する火薬の原材料を作っていたのです。しかし何故、前田家はこんな山奥の飛び地でそんな事をしていたのでしょう?
「分水嶺」という言葉はあの村上春樹が好んで使う、いわゆる「春樹語録」の一つです。本来は山に降った雨水が集まって異なる方向に流れていき、それぞれの水脈を形成していく分岐点を指します。分水嶺は通常、山奥にあって見ることはなかなか出来ないのですが、白川郷からさほど遠くない場所に、片方は伊勢湾に流れて太平洋へ、そして、もう片方は富山湾に流れて日本海へ、という分水嶺が存在するのです!
白川郷は1995年にユネスコ世界遺産に登録されてから世界的な観光地となり、インバウンドの観光客が数多く訪れるようになりました。そんな白川郷の名物の一つが「どぶろく」。白く濁ったお酒なのですが、どぶろくがこの地域の名物となっていった背景には昔から比較的近代まで行われていたお米のある調理法があったのです・・・・。
明治村にはアメリカ人建築家のライトによる帝国ホテル中央玄関や、東京本郷にあった森鴎外と夏目漱石という二大文豪が住んでいた家など、貴重な建築物が沢山保存されています。明治は日本人の生活のみならず食生活も大幅に変わった時代でした。この頃から日本で食べられ始めたお食事の一つに牛鍋、或いはすき焼きがありますが、皆様、これは洋食だと思いますか、それとも和食だと思いますか?
現在85歳の僕のメンター的な方がいらっしゃいます。この先生は東京の山手で育ちましたが、学友であった故古今亭志ん朝さんに誘われて下町である向島のご自宅に伺った事があったそうです。この時初めて隅田川の「川向こう」に行ったんだそうですが、そこでご馳走になったのが、これまた初めて食べたという下町の名物である「どじょう」。関東大震災でも崩れずに隅田川の人の行き来を支えた「新大橋」も現在、明治村に移築されています。
明治七年、1874年に新橋ー横浜間に日本で一番最初の鉄道が敷かれました。当時の蒸気機関車はイギリス製、シャープ・スチュアートという会社のものでした。この汽車はその後、名古屋鉄道に売られ、そして現在は明治村で走っているのです。この汽車に乗った際、蒸気機関や汽笛の音も録音してきましたので、その臨場感溢れるサウンドと共にお楽しみ下さい!
日本で一番最初に灯台が建造されたのは東京のお台場。明治三年、1870年のことでした。お台場というのは元々ペリー来航に伴い、江戸を守るための砲台を設置する場所として徳川幕府によって造られたものでした。灯台は明治村に移築されましたが、お台場には今当時を偲ばせるものがまだ幾つか残っています・・・。
東京から犬山に行くには大抵、名古屋を経由します。名古屋市内には江戸時代の武家屋敷の地割、そして面影が残っている白壁、主税町、そして橦木町という高級住宅街がありますが、そこにあるお屋敷の一つが現在「か茂免」という名前の料亭になっているのです。名庭師、七代目小川治兵衛が手がけたお庭を眺めながら、CHEF1グランプリ日本料理部門でナンバーワンに輝いた猪口真弥料理長が手がけるお料理を頂くのは至福のひとときでした・・・。
犬山には1618年に、織田信長の弟である織田有楽斎が作らせた「如庵」という茶室があります。現在は国宝に指定されているこの如庵は元々京都にありましたが、明治に東京に移築されて、その後大磯を経て最終的に犬山に移築され、現在に至っています。実は織田有楽斎をはじめ千利休など、茶道とキリスト教というのは意外に関係が深いという事はご存知でしたか?
1584年に豊臣秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で長久手の戦いというのが起こります。その際に家康の臣下で唐犬の耳の形をした変わった頭巾を被って手柄を立てた成瀬正成という武将がいました。この成瀬正成は唐犬頭巾を被っていた事から、犬にちなんて犬山城が与えられ、犬山藩の初代藩主となっていくのです。そしてなんとこの犬山城は2000年代まで全国でも珍しい犬山家の個人所有だったのです!
焼き鳥や串カツ、イカ焼き、おでんなどのいわゆる「串物」、皆さんはお好きですか?お城マニアならご存知の名城「犬山城」がある犬山は現在「串物の町」としてステーキから名古屋コーチン、だし巻き卵などさまざまな串グルメが楽しめるようになってます。城下町を串物を片手に食べ歩きながら散策するなんて素敵ですよね〜!
かつて琵琶湖には丸子船と呼ばれる船が縦断して物資を運んでいました。しかしペリーが乗ってきた蒸気船を見て、これを使えば運搬量が大幅に増え、運送時間も短縮出来ると考えた大聖寺藩出身の藩士・石川嶂は明治2年に琵琶湖で最初の蒸気船「一番丸」を就航させます。そんな水運も鉄道網の発達にともなって衰退していってしまいますが、近年、水運は環境負荷の少ない「グリーン物流」として再び注目されつつあります。
京都と大津の間、ちょうど滋賀県と京都の県境にあたる場所に「逢坂関」というところがあります。百人一首の中で蝉丸がここ逢坂関について謳った短歌がありますが、そこでは逢坂関が京の都から出て行く人も帰ってくる人も皆ここで出逢い、別れていく、いわば人々の喜びと悲しみが繰り返される場所であると謳われています・・・。
日本の文化に造詣が深かった随筆家の白洲正子さんは琵琶湖の周辺を何度も訪れています。「琵琶湖を一つの鏡と見做すなら、それは単に風景を映すだけの鏡ではない。人の心の奥にある感情や記憶までも映し出す深さをもっている」白洲さんはこんなふうに琵琶湖について書いています。そしてあの紫式部も源氏物語を書く上で琵琶湖に映し出された月が大きなインスピレーションになったと言い伝えられているのです・・・。
前回お話しした坂本も大津も琵琶湖のほとりの港町として発展してきました。平安時代の頃より日本海側でとれた海産物などの物資は船に積まれて琵琶湖を縦断し、京都まで運ばれて献上されていましたが、その際、坂本や大津は交易の要衝として重要な役割を果たしていました。やがて流通が盛んになってくると関所が設けられて、通行料や倉庫の保管料などを徴収するようになっていきます・・・。
京阪石山坂本線の終点、坂本比叡山口駅。ここにはかつて石を積む事を専門としていた「穴太衆」と呼ばれる職人集団がいました。弥生時代に日本に稲作が伝来した際、水田を作るのに石垣を積んだ事がそのルーツではないかといわれておりますが、その後、この穴太衆は江戸城をはじめ、日本中の多くのお城の基礎の石を積むのに駆り出されていたりしたそうです。
大津・坂本には300年以上続く『鶴喜』さんという老舗のお蕎麦屋さんがあります。ここは随筆家の白洲正子さんもかつてよく来られていたそうで、1887年に建てられたお店は国の登録有形文化財にも指定されています。また、鶴喜さんはかつて延暦寺にお食事を運ぶ事が許された唯一の食べ物屋さんだったそうです。言うまでもなくお蕎麦は絶品でした!
大津市にある坂本にはお料理を祀っている神様がいらっしゃいます。日吉大社の中には料理人の為の包丁を祀った包丁塚、そしてかまどを祀ったかまど神社というのがあります。また大津の錦織というところには平安時代から続く「清和四条流」という日本料理の流派まであるのです。琵琶湖の魚を使った料理など、ここには美味しいものが沢山あるのも納得ですね!
大津にある日吉大社には9世紀にくくり姫が降臨したといわれています。このくくり姫は黄泉の国へイザナミに逢いに行ったイザナギが「見てはいけない」と言われていたのに、イザナミの姿を見てしまった際、二人の仲をとりもった神様であると言われています。その為、人とのいざこざや揉め事があった際はここにお参りをすると良いそうです。
貴船神社では天気を禊いで下さる神様を祀っています。その昔、悪天候が続いたりした際は、この神様に馬を捧げて豊作を祈ったそうです。それがいつしか本物の馬から馬の絵を板に描くようになり、それが絵馬となったのです。今や全国どの神社に行ってもある絵馬ですが、貴船神社はまさにその発祥の地。そんな由緒ある貴船ですが、5月からは川床で貴船川の音を聴きながらおいしいお食事を頂く事が出来ます。
貴船神社にお参りした後は物凄く元気になりました。それはもしかしたら、この神社の御神木である桂の木のおかげかも知れません。樹齢400年、高さは約30メートルで、大地から天に向かってまっすぐに伸びています。この御神木の近くにあるひろ文さんという料亭でお食事をしましたが、炭火で美味しく焼かれた地元の川魚、正に逸品です。またこの炭火も穢れを祓ってくれるような気が致しますね!
京都の北にある山間部の北山は市内と比べて涼しい事から、平安時代より避暑地として知られていました。貴船川もそんな由緒ある場所の一つ。貴船口の駅から貴船神社に向かって歩いていくと、右側に『蛍岩』という大きな岩が見えてきます。ここはその名の通り、蛍の見られる名所ですが、ここには今から1000年ほど前に恋に悩んでいた和泉式部が訪れています・・・。
神武天皇の母といわれている女性の神様、玉依姫命はあるとき、大阪湾から淀川を上って京都の鴨川を抜け、北の上流の方へと向かいます。そして鞍馬川と貴船川に分かれるところで鞍馬川の方へ上ろうとした際、舵取りの神様が現れて「こちらではありません。あちらの方ですよ」と貴船川の方へ行くよう玉依姫命に教えたという伝説があります。この舵取りの神が現れたといわれているのが現在の貴船口の駅があるところ、そして玉依姫命は貴船川の上流にある貴船神社では玉依姫命が祀られています。
京都のお土産と言えば多くの人の脳裏に浮かぶのは八ツ橋ではないでしょうか?京都にはかつて仙人が食していた生八ツ橋に少し似た食べ物で、食べると元気がハツラツになるといわれている「益寿糖」という名の伝説のスーパー・スウィーツがありました。お身体が弱かったと言われる大正天皇がまだ皇太子だった頃、その健康を心配した明治天皇が命じて「益寿糖」を復古させましたと言われています。おかげで「益寿糖」現在は誰でもお買い求め頂けるようになっています!
鎌倉幕府初代征夷大将軍、源頼朝の父でもある源義朝の九番目の子であった源義経。幼少の頃は牛若丸と呼ばれ、鞍馬寺に預けられて将来は僧侶になる予定だったと言います。しかし、父義朝の仇である平家と戦うべく武士となり、壇ノ浦の戦いなどで武勲を立てるなだ大活躍します。そんな義経、一体当時どんなものを食べていたのでしょう?やはり鞍馬山名物の刺激的なあのスパイスだったのではないでしょうか!
京都市左京区北山にある鞍馬寺。源義経はここで修行をし、鞍馬山に棲んでいたと言われる大天狗を退治したと伝えられています。またそれより少し前の平安時代、清少納言によって書かれた「枕草子」にも「近うて遠きもの くらまのつづらおりといふ道」という形で鞍馬山は登場します。左京区北山という京都市内にあってもなお、清少納言のように当時京の都に住んでいた人々にとって鞍馬山は近いようで遠いところだったようです。そしてここ鞍馬山では5月の満月の夜に行われる秘祭があるのです・・・。
今から約650万年前、京都の鞍馬に金星人が降り立ったという都市伝説があります。現在の人類の技術では金星が最も地球に近づいた時でさえ、到達するのに約200日ほどかかるそうです。そんな長旅ですと大事になるのがその間のお食事ですが、徳島大学で宇宙食の研究をされている先生がいらっしゃいます。そして宇宙食の研究で培った技術は実は地球上の農業にも応用されているのです!
人を自宅に招いたりして幸せな時間を共有するというのは実に素晴らしい事ですね。住宅事情もあって日本では西洋ほど頻繁に人を自宅に招く習慣はありませんが、それでも招かれた家に入った際、とっても幸せに包まれる香りのひとつが「焼きたてのパンの香り」ではないでしょうか?そして焼きたてのパンの香りで多幸感を覚えるのも、実は我々のDNAの中に組み込まれている特徴なのかもしれません・・・。
皆さんは給食、お好きでしたか?良い思い出はありますか?実は「給食」という言葉は奈良時代からありました。この当時、役人を養成する教育機関が既に存在し「大学」と呼ばれていましたが、ここの生徒達が寮で食べる食事が「給食」と呼ばれていたのです。では日本における近代的な意味での「給食」はいつ、どこで始まったか、ご存知ですか?※放送内容の一部、表現に間違いがあったため修正しました
「食育」という言葉は石塚左玄という明治時代の医師によって生み出されました。「体育」「知育」「才育」の根幹にあるのが「食育」であると説きました。更に石塚左玄は「郷に入れば郷に従え」つまりその土地の環境にあった食材を使った食事を摂りなさい、という意味である「身土不二」という考えも説いています。
頭で考えるのと同じように、私たちの腸もまたいろいろな事を考えているという説があります。脳は論理的な事を考えるのに対して、腸は私たちの身体の栄養が足りている、或いはこの栄養が足りていない、といった事を考えて脳に伝え、その命令に従って私たちは食べ物を買いに行ったりするというものなのです・・・。
軽井沢で晩年を過ごした小説家、堀辰雄の旧居跡には現在「堀辰雄文学記念館」が建っています。堀辰雄の代表作は「風立ちぬ」。この作品名は松田聖子さんの大ヒット曲やスタジオ・ジブリの映画のタイトルにも使われていますが、元々はフランスの詩人、ポール・ヴァレリーの詩から引用されています・・・。
軽井沢といえばジョン・レノンを思い浮かべる方も少なくないと思います。1970年から1979年にかけて、ジョンとヨーコ、そして息子のショーンは何度か軽井沢を訪れています。当時ジョン・レノンと会ったり、交流があったという方は多かったようですが、既に45年以上前という事もあり、その数は年々減っています。そんなジョンとヨーコが定宿としていたのが軽井沢の万平ホテルでした。
近代建築の三大巨匠といえばフランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、そしてル・コルビジェです。ミース・ファン・デル・ローエはあまり日本では知られていませんが、ライトは旧帝国ホテル、そしてコルビジェは上野の国立西洋美術館をそれぞれデザインしている事で日本でもお馴染みです。しかし、ライトの愛弟子が軽井沢に建てた建築物のデザインをめぐって、ル・コルビジェとの間に確執があったという事はご存知でしたか?
最近はステーキの事を「ビフテキ」とは呼ばなくなりました。ステーキといえばビーフだという事が共通認識となった為に、わざわざ「ビフテキ」とは呼ばなくなったのか、それとも「ビフテキ」という響き自体があまり現代的ではないからでしょうか。響きといえば「軽井沢」という地名もとっても素敵な響きですが、それは何故だと思いますか?
現在の雪印メグミルク株式会社の前身にあたる有限責任北海道製酪販売組合が設立されてからも今年で100年です。しかし遡りますと飛鳥時代に百済より牛乳「らしき」ものである「醍醐」と呼ばれていたものが日本にもたらされていたようですが、この醍醐が実際はどのようなものであったかは日本食品史最大のミステリーの一つとされています・・・。
三菱鉛筆といえばトンボ鉛筆と並んで、日本ではお馴染みの鉛筆ですが、そんな三菱鉛筆も今年で設立百年を迎えています。でも、この三菱鉛筆とあの三菱グループとは全く関係がないんですね!そして鉛筆と言えば、牛肉のリブロースの芯の部分に「えんぴつ」という部位があるのをご存知でしたか?
味の素も株式会社鈴木商店という名前で発足以来、今年で設立百年を迎えました。かつて、特に西洋では人間が味覚として感じているのは甘味・酸味・塩味・苦味の4つのみだと考えられていました。しかし、東京帝国大学の池田菊苗教授がダシとして使われている昆布の旨味がグルタミン酸である事を発見し、現在では旨味は味覚の五大要素の一つとして認識され、UMAMIという単語は世界の共通語となりました。味の素はこのような旨味の成分を利用した調味料です。
今年は昭和も丁度百年、そしてラジオの放送が始まったのも、今から100年前の1925年です。ラジオ開局の際、一番最初に流れた曲は何であったかご存知ですか?ヒントは作詞:北原白秋、作曲:山田耕作の楽曲。日本を代表する作曲家の1人である山田耕作はヨーロッパで過ごした時期が長かったのですが、ヨーロッパでは日本のある料理にインスパイアされたオリジナル・レシピのお料理をよく振る舞っていたそうです・・・。
沖縄本島のシンボルといえばやはり首里城。2019年に火災で正殿などが消失してしまいましたが、来年の秋には復元工事が完了するようです。首里城のふもとに「角萬漆器」という漆器屋さんがあり、そこでアイスクリームを注文したところ、緑茶の粉を入れるなつめに入って出てきたのです。なかなか粋な入れ物ですね。
名護市の北東に浮かぶ伊江島は落花生の産地。落花生は地面に生える豆という事で「地豆」とも呼ばれていますが、これをうちなーぐちで『ジーマミー』と言います。そしてこのピーナッツから作られる豆腐が沖縄名物の「ジーマミー豆腐」。ジーマミー豆腐は前菜やおかずとしても頂けますし、スウィーツとしても楽しめるのです!