ã“ã®ç•ªçµ„ã¯ä½œå®¶ãƒ»æ–‡çŒ®å¦è€…ã®å±±å£è¬ å¸ãŒã€æ—¥æœ¬ã®é£Ÿæ–‡åŒ–を通ã—ã¦å…¨å›½å„地ã§è‚²ã¾ã‚Œã¦ããŸâ€œæ—¥æœ¬ãªã‚‰ã§ã¯ã®çŸ¥æµâ€ã‚’ç´è§£ããƒãƒƒãƒ‰ã‚ャストã§ã™ã€‚(FMラジオ局 J-WAVE 81.3FM ã§ã¯æ¯Žé€±æœˆæ›œæ—¥ã‹ã‚‰æœ¨æ›œæ—¥ 15:10〜15:20ã«ã‚ªãƒ³ã‚¨ã‚¢ä¸ã€‚)

年末年始、めでたい時間に食べたくなる料理のひとつが「鯛飯」。日本の食文化らしい祝いの一皿です。広島・鞆の浦は、江戸時代から鯛の名産地として知られる場所。頼山陽の父、頼春水が記した鯛飯のレシピも、この地で獲れた鯛を用いるものでした。そして、その鯛飯に合わせたい酒として名を挙げられるのが、京都の銘酒「剣菱」。瀬戸内の明るい空の下、食と酒と歴史が静かにつながる、広島の一夜です。

江戸時代、漢詩・文学の世界で大きな影響を残したと言われる頼山陽。広島出身の彼は、当時から養殖されていた広島の牡蠣が大好きでした。京都に移り住んでも広島の牡蠣を絶賛宣伝し、漢詩にまでしています。とれたての新鮮なものはそのまま食べてもおいしいが、頼山陽は「桂皮(シナモン)」と「生姜」をつけて食べていました。実際にやってみると、これが想像以上に牡蠣に合いました。広島の養殖牡蠣を「一つ一つが峰から出てきた瑞雲のようだ」と称し、「故郷の美味は筆記になし難い」とまで頼山陽は言い募っていました。

広島でとてもおいしいあさりをスープでいただきました。「大野あさり」という広島の地域ブランドになっている名産品です。宮島(厳島)とその対岸にある廿日市市の間の水路で育てられます。なにこれと驚くほど味が濃いスープがとれます。はまぐりが身を食べるものなら、あさりはスープを取るものともいえます。「大野瀬戸」というミネラルを豊富に含んだ海で作られる「大野あさり」。このあさりで作ったパスタ「ボンゴレ・ロッソ」「ボンゴレ・ビアンコ」は最高においしいものでした。

広島の名産品と言えば「おしゃもじ」。「杓子(しゃくし)」とも呼ばれていますが、「おしゃもじ」という名前は、昔、宮中に仕える女官が使っていた「女房言葉」から来ています。「灼(しゃく)」に「お」と「もじ」をつけて「おしゃもじ」となりました。「おしゃもじ」を打ちならすと「カチカチ」という音がします。これが「勝ち」を連想させて縁起が良い!となって、必勝祈願の験担ぎとしても使われるようになりました。広島の野球の応援で「おしゃもじ」を打ち鳴らす様子は、もうおなじみですね。

宮城県・石巻は“橋の町”。橋の上から眺める水面はきらきらと光り、街の内側を映し出すような風景が広がります。そんな港町で味わったのが、大鍋で炊き上げる魚介たっぷりのパエリア。海の幸が豊富な石巻では、売り物にならない魚介も生かしながら、この料理が自然に街の食文化として根づいてきました。サフランの香りとともに広がる一皿のパエリア。その奥には、石巻とスペインをつなぐ、遠い時代からの交流の記憶が息づいています。

近所にフランスから出店されているおいしいパン屋さんがあります。そこで必ず買うのが「パンオレザン」。レーズン入りの「ぐるぐる巻きのパン」です。石巻という地名も石がぐるぐる巻くと書きます。石巻出身の有名人に、漫画家の石ノ森章太郎さんがいます。北上川の河口近くには「石ノ森萬画館」がありました。石ノ森さんの代表的な作品に「仮面ライダー」がありますが、その変身ベルトもぐるぐる回っていました。石巻でぐるぐる巻の「パンオレザン」を食べてみると、ぐるぐるぐるぐる、なんだか不思議な世界に巻き込まれていくような気持ちになります。

北上川の石巻市の隣の「登米地方」では、「ハット汁」という郷土料理があります。ごぼう、干し椎茸、にんじん、大根などとともに、小麦粉を耳たぶほどの硬さに練って、ひと口大に薄くちぎったものを入れた「すいとん」に似た料理です。ハット汁の「はっと」は「ご法度」が語源だとも言われています。米どころでありながら、コメを食べることを「ご法度」と禁じられた農民が、米の代わりとして、おいしく食べられる料理を作ったことからとも言われています。ありあわせの素材で作ることができる「ハット汁」、寒くなった今、おすすめです。

石巻で「ずんだ」のお菓子を食べました。「ずんだ餡」の材料といえば「枝豆」ですが、「青ばた豆」でも作るそうです。この「青ばた豆」は、東北では出汁に浸して食べることもあるとか。「青ばた豆」と「枝豆」それぞれ味わいがあって美味しいので、食べ比べてみるのもおすすめです。

松島湾に大きな満月が昇る夜、思い浮かんだのは“卵”という万能食材。茶碗蒸し、オムレツ、オムライス、プリン──形を自由に変えながら、人の暮らしに寄り添う味わいです。そんな卵料理の中でも、意外と一年に一度しか食べないという声も多い「伊達巻き」。そのルーツには、伊達政宗がローマへ遣わした支倉常長が持ち帰った“ロールケーキ”があるとも言われ、卵と魚のすり身を使った和洋折衷の知恵が詰まっています。

エンヤドットエンヤドットの掛け声でおなじみ、松島を代表する民謡「大漁唄い込み」。カツオ漁などの大漁を祝う歌でした。今では珍しくなったと言われる「ナマリブシ(生利節)」で、松島のカツオをいただきました。通常のかつお節か何度か燻製を繰り返して作るのに対して、「ナマリブシ」の燻製は一度だけ。だからなのか、カツオそのままの味が、芯のあたりに残っていて絶品でした。松島ではこうしてカツオをいつでも食べられるように工夫を凝らしていました。

松島に行くと「笹かまぼこ」が売っています。かまぼこはフランスの「シャキュイットリー」に匹敵するものだと思います。ハム・ソーセージ・やテリーヌ。肉に火を入れた加工食品のことです。かまぼこもさかなに火を入れてつくっていることからいわば「ポワソン・キュイットリー」です。「笹かまぼこ」は、松島ゆかりの伊達家の家紋「竹に雀」の竹の笹にちなんで名付けられたそうです。その焼き目がつけられたかまぼこは、蒸したかまぼことは違う、見た目のおいしさも醸し出しています。

松島で、お米を使った「紅蓮」というお菓子を頂いて来ました。炭火で焼くとグネグネと生き物のように動いて、表と裏をひっくり返すとちょっと焦げ目がついて、いい香りがします。まさに手間ひまをかけて作られているからこそ味わい深いお菓子なんですが、実はこの「紅蓮」は鎌倉時代の尼さんの名前から付けられています。そこにはどんな物語があるのでしょうか?

宮城県・塩釜で訪れた蕎麦店「しおがま庵」店の向かいに立つ大鳥居は、東日本大震災の津波が“そこで止まった”場所。その4メートル下にあった酒蔵・阿部勘さんは津波で大きな被害を受けましたが、見事に復活。こちらでは、縁起の良い「ミミズク」と「鶏」のラベルを2枚重ねたお酒を販売しています。めでたさを取り込み、災厄を乗り越え、日々にメリハリをつける。そんな塩釜の知恵は、お酒の一滴にも宿っています。

塩釜の「しおがま庵」というそば屋さんで、そばに菊を練り込んだ「菊そば」をいただきました。このお店は月ごとに、旬のものを使った変わりそばを提供しているようです。お店の近くには「曲水」があり、平安時代から塩釜が「憧れの地」であったことがしのばれます。また、お店には「花巻」というメニューがありました。宮城県七ヶ浜で採れたおいしいのりをちりばめた「かけそば」です。これだけでふつうのかけそばとは、全然違った味わいがあるそうです。

塩はなくてはならないものです。盛り塩にして「結界」を作ったりするだけでなく、病にかかっている人に塩を見せて(見せ塩)、耳元で米を振る音を聞かせる(振り米)と、病魔が退散するとも信じられていました。塩釜にある「鹽竈神社」に祀られている塩土老翁神(しおつちおじのかみ)は、人々に塩の作り方を教えたといわれています。日本各地、そして世界各地においしい塩がたくさんあります。料理によって塩を変えてみると味も気分も変わります。それだけでなく気分が優れないとき、自分自身に塩をふりかけてみると、気分が一掃されるかもしれません。

塩竈の”塩”にまつわるお話。玉藻という藻についている海水についた塩から作った「藻塩」を使った「塩おにぎり」、とっても美味しいです。宮城県・加美町の近くで栽培された「ササシグレ」というお米で作った「藻塩のおにぎり」を食べて来ました。私が訪ねた農家では、合鴨農法で「ササシグレ」を育ているそうです。塩竈神社では、今も、藻塩を作る神事が行われています。

兵庫県豊岡市・出石の地で出会ったのは、驚くほど甘く、噛むほど旨みが深まる“生食できるピーマン”。苦味のイメージを覆すその味わいは、育てた人の技と土地の力によって実現した、まっすぐで豊かな野菜本来の味です。そして町を見上げると目に入るのが、長崎から運ばれた日本で二番目に古い時計台「辰鼓楼」。さらに町を歩けば至るところに掲げられている「◯に無」の旗印。“自分を無にして仕える”という覚悟から生まれたこの文字は、今もなお、出石の精神性を物語る象徴的な言葉です。ピーマンの「無」に何を詰めるか・・・それは自由で無限です!

まっしろな磁器の小皿に盛って出される独特なスタイルの出石のそば。最初に出されたときはドギマギしました。この出石焼の小皿の「白」は、この地で採掘される「柿谷陶石」を原石として、昔から使われてきました。江戸時代中期の1700年頃に信州上田藩の仙石氏(仙石政明)がお国替えとなり、出石にやってきます。その際、一緒にきた信州のそば職人の技法が伝えられ、出石そばが誕生します。白いお皿にのったそばを食べなから、歴史に、長野とのつながりに思いをはせてみるのもまた一興です。

江戸時代の町並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている出石は、そば処でもあります。街にはおよそ40軒ものお蕎麦屋さんが軒を連ねています。5つの白い磁器の小皿に盛り付けて出されるという独特のスタイルの出石そば。街では「出石皿そば巡り巾着セット」が販売されていて、これを買い求めれば3軒のおそばを味わうことも可能です。薬味もつゆもさまざま。一日、タイムスリップしたように街を散策しながら、お腹が空いたらおそばというのも出石の楽しみです。

仙台でいただいたのは、七ヶ浜産のハマグリを使ったお椀。春のイメージが強いハマグリですが、「浜の栗」という名のとおり、秋のハマグリもまた格別の味わい。「煮ハマグリ」のお寿司も美味しいですが、若き寿司職人たちが握る、力のこもった一貫と、修行のために“握らない”という覚悟。それぞれの形で「寿司」と向き合う姿に、食の奥深さと人の温かさを感じます。お昼こそ寿司!シャリの量に込められた小さな工夫にも、江戸前の知恵と粋が息づいています。

仙台というと「夏目漱石」を思い浮かべます。なぜか…? 実は東北大学に漱石の膨大な蔵書や資料が「漱石文庫」として所蔵されているからです。 東北大学の図書館の館長であった愛弟子の小宮豊隆が、漱石の功績を残そうと、東京の漱石宅から搬入し、それによって戦災での消失を免れたのです。そんな東北大学の創立100年を記念して「吾輩は羊羹好な猫である」という漱石にちなんだ羊羹も発売されました。私の大好物の「唐墨のお茶漬け」と漱石の大好物だった羊羹。この組み合わせで食べると漱石の文学がサラサラっと入ってくるような気がします。

仙台の人にとって、なくてはならない食材「芋がら」。里芋の茎の部分を干したものです。これを煮物、酢の物にします。若い頃、医学を学ぶため仙台に住んでいた中国の文学者・魯迅(ろじん)は、この「芋がらの汁」を食べたがのどを通らなかったと書き記しています。魯迅は、仙台で人生の師に出会い、医療の最先端を学びます。医療で中国を近代化するためでした。しかし、その授業の最後に見た「日露戦争の映像」で衝撃を受け、そのまま文学に転向します。芋がらの汁の味は苦難の味となり、魯迅を世界を変える文学者へと進ませたのでした。

仙台で「フカヒレスープ」を頂いて来ました。美味しいですね。宮城県の気仙沼は、昔からサメ・フカ漁が盛んでした。フカのヒレを乾燥すると最高級の「フカヒレ」になります。江戸時代、仙台藩は、この「フカヒレ」を中国に輸出して、莫大な利益を得ていました。そんなフカの中でも、ずっと泳ぎ続けていなければいけないホオジロザメを見ていると、ココ・シャネルのこんな言葉を思い浮かべます。『翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やすためにどんなことでもしなさい』

兵庫県豊岡市、ここで育まれた但馬牛は、赤身の柔らかさと、口の中で柔らかく溶ける脂の甘みで知られます。そんな豊岡の象徴のひとつ「玄武洞」は、五角形の玄武岩柱が並ぶ神秘的な洞窟です。後にこの地の岩石を研究した松山基範博士が、「地球磁場の逆転」という世界的発見を発表しました。たとえ磁場が変わっても、北を守る玄武のように、変わらぬ食の力が、私たちの暮らしを静かに支えてくれています。

豊岡市を含む兵庫県北部は、かつて「但馬」と呼ばれ、金・銀・銅をはじめ多種の鉱物が採掘できるエリアで、日本の歴史に深く関わりながら発展しました。古くは奈良の大仏を作るために銅やすずを献上し、明治時代以降は、国の近代化を支えた科学技術の原材料となりました。江戸時代までは、箸だけを使って食事をしていましたが、近代化によって、西洋からナイフ・フォーク・スプーンが入ってきます。その原材料にもなりました。そうした鉱山は「鉱石の道」として日本遺産にもなっています。

豊岡には、「杞柳細工」という伝統工芸があります。たくさん自生しているコリヤナギという柳の一種を使って、さまざまなカバン、お弁当箱が作られています。もともと、豊岡を流れる円山川の氾濫が多く、米が収穫できなくなり、生活のため始められたものでした。 明治以降は「行李」が生まれました。市内にある販売店を訪ねると、様々なお弁当箱かばんが置かれていて、選ぶのに迷ってしまいます。 自分で作ることのできる講習もあるので、参加してみてはいかがですか。

豊岡市で、特別栽培米「コウノトリ育むお米」というおいしいお米を食べて来ました。一度絶滅したコウノトリを再生するために作った田んぼで育ったお米です。コウノトリが生息していくために、田んぼの周りにいる生物が30種類以上できれば50種類ぐらい生息していることが必要と言われていますが、そんな田んぼで作られたお米はやっぱり美味しいんです!

兵庫県の「城崎温泉」は、1300年もの歴史を誇る日本有数の古湯。奈良時代、コウノトリが傷を癒したという伝説をきっかけに発見されたと伝わっています。明治以降は海軍や陸軍の療養地としても発展し、人々の体と心を癒してきました。文豪・志賀直哉も滞在した老舗旅館「三木屋」では、かつて宿泊客が自炊をして過ごしたという、温泉本来の“湯治”文化の名残が今も息づきます。温泉街に佇む「温泉寺薬師堂」には、薬師如来が祀られ、湯そのものが“薬”として人々を包み込みます。体を温め、薬膳を味わい、病を遠ざける——。古来より続く癒しの知恵が、今日も静かに湯けむりの中に漂っています。

冬になると全国から「カニ好き」が集まってくる城崎温泉。城崎のある日本海西部は「ズワイガニ」の宝庫です。それぞれの地域でブランド付けられています。城崎で提供されるのも「津居山ガニ」「香住ガニ」「柴山ガニ」と3種類。これを「お刺身」「茹でる」「焼く」「鍋にする」とカニの代表的な4つの味わい方で一日一回食べるとしたら3✕4で12日必要です。さらに城崎温泉の人気の「外湯」6つを巡りながら食べるとすると、さらに6をかけて72日。城崎温泉はそのくらい湯治に行きたいと思わせてくれます。

『城の崎にて』 志賀直哉の短編小説です。山手線にはねられ怪我をした志賀が、療養のため訪れた城崎温泉での様子を描いた「私小説」の代表的な作品です。志賀が定宿にしていたのは「三木屋」という旅館でした。現在は旅館として営まれていますが、志賀がやってきた1913年頃は、食事は自分で作って泊まるという「湯治宿」です。そんな宿の女将に志賀直哉は、「ぼくは朝食にパンが食べたい」と言います。女将は「パン」という言葉さえ知りません。果たして、志賀の要望はどうなったのでしょうか。

京都・舞鶴の港に並ぶ「赤レンガ倉庫群」。明治時代、欧米の港町文化とともに全国へ広まったレンガ建築は、日本の蔵とは異なる、どこか温かみのある佇まいを見せます。その赤褐色は、まるでチョコレートのよう。舞鶴のレンガ倉庫には、かつて海軍の食料だけでなく、甘い菓子やビールのように心を和ませる品々も保管されていたのかもしれません。カカオ色の壁が並ぶ港町で、人々の暮らしと味覚の記憶が静かに息づいています。

舞鶴市内には縄文時代から人々が豊かに暮らしていた痕跡があり、それは市内各地の遺跡で確認されています。弥生時代に入ると「稲作」も始まります。舞鶴の海・山の恵みは、飛鳥時代になると庶民が味わうだけでなく、天皇へも献上されるようになります。持統天皇のいた「藤原京」へは、「カワハギの干物」が貢がれたことが記録に残っています。対馬海流が運ぶ舞鶴の海の幸は、古来から天皇さえ納得させるおいしさだったのです。

舞鶴港は、第二次大戦後13年間にわたり、シベリアなどに抑留された多くの人々の引揚者を受け入れました。戦後歌い継がれてきた歌謡曲『岸壁の母』。シベリアで抑留された息子の帰還を信じ、舞鶴港に立ち続けた母親の心情を歌った曲です。港の近くには、その姿をモチーフにした「母の像」が佇んでいます。抑留された人々も極限状態の中で思い出したのは、こうした母親の姿だったでしょう。母親からかけられた言葉、作ってくれた温かい食事を思い浮かべながら、必死に生き延びたのではないでしょうか…。

京都・舞鶴にある松栄館。昔は旅館でしたが、今はレストランだけの営業をしています。こちらの大広間には、明治時代の元帥・東郷平八郎が書いた 大きな掛け軸が飾られています。「天地正大氣」という文字、東郷の満ち溢れる気迫と優しさを感じることができます。この松栄館では、当時の味を復元した「海軍カレー」や 東郷が留学先のポーツマスで覚えた味と言われている「シチュードビーフ」などを食べることができます。

京都・天橋立の端にある「智恩寺」の門前に、335年もの歴史を持つ「四軒茶屋」があります。 そのはじまりは、智恩寺の住職が四人の弟子に「茶屋を開け」と命じ、それぞれに違う団子とあんこの作り方を授けたこと。以来、四軒は互いに客を「次はお隣へ」と勧め合い、共に繁栄を続けてきました。智恩寺に祀られるのは、知恵の仏・文殊菩薩。“知”は的を射抜く矢、“恵”は切れずにつながる糸を表すように──人と人、知恵と知恵が結び合うことで、天橋立の文化は、今も息づいています。

天橋立のある阿蘇海の入江に「与謝野町」というまちがあります。与謝野といえば、与謝野鉄幹・晶子夫妻。そして与謝といえば、与謝蕪村を思い出します。実際、蕪村は3年ほど天橋立のある宮津に住み、俳句を作り、絵を描いていました。画人としては人々の描写に「音が聞こえてくる」ような独特の味わいを絵にし、俳人としても、情景が目に浮かぶような句を詠みました。「のたりのたり」と、蕪村は穏やかな海を表現します。それは干満の少ない天橋立あたりの海の様子を的確に表現したものでした。

日本三景の一つ「天橋立」。古事記にも登場します。「国生み」「神生み」を行ったとされるイザナギノミコトとイザナミノミコトは天橋立と関連が深いとされています。神生みの途中で命を落とし、黄泉の国に行ってしまったイザナミにどうしても会いたいと思ったイザナギ。地上で会うためにはしごを用意します。しかし、寝ているうちに倒れてしまい、それが天橋立になったと言われています。またこのあたりでは「グジ(甘鯛)の松かさ焼き」が名物になっています。

天橋立で有名なのが「股のぞき」。その始まりは、明治時代と言われています。まるで「龍が天に昇るように見える」そんな謳い文句で観光地「天橋立」を全国に知らしめたのです。同じく観光地に人を集めると言えば、松尾芭蕉の句碑。全国、色々な所にありますが、天橋立にも、「一声の 江に横たふる ほととぎす」という芭蕉の句を刻んだ句碑が建てられています。でも、実は、松尾芭蕉が天橋立を訪れた記録はありません。一体なぜ、ここに芭蕉の句碑があるんでしょうか?

「無関心」を英語では「nonchalant(ノンシャラン / ノンチャラン)と言います。ランチミーティングなどで、会議に夢中になって無意識にランチを食べていませんか? そんな食べることに無関心なランチを「ノンチャランランチ」=「ノンチランチ」と名付けてみました。フランスを代表する小説家のバルザックも「食」に対して、無関心、無頓着な「ノンチランチ」の人でした。小説を書くことに全てを注ぎ、そのエネルギーを満たすために、ひたすら食べる、そんな生活から生み出されたフランス文学の金字塔とも言える名作が「人間喜劇」という作品です。

「crunch」(クランチ)という言葉。バリバリ噛む、噛み砕く、粉砕するという意味です。語感の似ている「ランチ」もバリバリ、サクサク噛み砕くとおいしさが増します。「サク」という言葉には、「咲く」や「割く」などありますが、どちらもあっさりとして気持ちの良い語感を持っています。ランチをクランチする。サクサク、ザクザク食べることで、生活の中に新しさ、新鮮さを取り込めるのではないでしょうか。

ランチという言葉はかつて「ランチョン」と言われていました。どちらかと言うと正装をして、誰かに招かれていく昼食のことをそう言っていました。エドゥアール・マネの名作「The Luncheon on the Grass」(草上の昼食)では、そんな「ランチョン」を川べりで行い、そして裸の女性が描かれ、当時、大スキャンダルになりました。この作品は、当時流行していた「外でランチを食べる」という風俗と古典的な題材を組み合わせ一枚の絵にするということでも画期的で、その後の西洋絵画に多大な影響を及ぼしたのです。

川越には、「小江戸黒豚」というブランド豚がいます。なんと、川越産のサツマイモに、パン、そして牛乳を食べて育つとか、、、びっくりです。そんな川越が生んだ有名な推理作家といえば、内田康夫さん。浅見光彦シリーズでご存知の方も多いかと思いますが、もし、内田さんが「小江戸黒豚」を題材にミステリーを書いたとしたら、、、、勝手に妄想が膨らんでしまいました。ミステリーとは、土地の記憶をたぐる旅でもあります。川越で小江戸黒豚とんかつが食べたくなってきました!