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日本橋といえば「三越」。玄関には、ロンドン・トラファルガー広場のライオン像をモデルにした二頭のライオン像が迎えてくれます。創業は、1673年、呉服店「越後屋」から始まります。「切り売り」「現金払い」「定価販売」を掲げて、庶民から武士まで幅広い支持を得ました。明治時代「三越呉服店」となり、やがて日本初の百貨店に発展、そんな三越の「特別食堂」は、家族にとって「ハレの日」の舞台でした。
日本橋は、五街道の起点であり、全国から集まった物資と情報が行き交った場所です。ここで信用を得た店は、たとえ、大火や震災、戦災で焼けても、同じ場所で店を構え続けました。そこには、先代から受け継いだ味や技、そして、お客様との信用を、世代を超えて守り続ける覚悟がありました。そんな日本橋の味を今に伝えるのが「海苔」と「お茶」そして「出汁」のお店でした。※番組からのお知らせです10月1日から『PLENUS RICE TO BE HERE』の放送時間が毎週月曜~木曜日 STEP ONEの中 11時40分~11時50分に変更となります。
今の日本橋は、上を首都高速が走っていますが、江戸時代は、橋の上に立てば、富士山が見えました。当時の様子を伝えてくれるのが、「熈代勝覧」という絵巻。そこには、1805年頃の日本橋通りの街並みが、細かく描かれています。当時の江戸の味といえば、江戸寿司の「コハダ」に「シンコ」、酢でしめて、シャリも赤酢を使うのが、江戸前の流儀。今も変わらぬ味が、江戸っ子の味覚の記憶を呼び戻してくれます。※番組からのお知らせです10月1日から『PLENUS RICE TO BE HERE』の放送時間が毎週月曜~木曜日 STEP ONEの中 11時40分~11時50分に変更となります。
神保町には、”静かな革命”を起こしていた女性たちによる、もう一つの文化がありました。声をあげずに書いた人たちのことです。料理をしながら、レシピの裏に自分の思いを隠していました。そこには台所から発信された文学がありあました。彼女たちを支えた神保町の場所とは?
神保町の名物ビアホール「ランチョン」、そのお店の奥のテーブルにいつも座っていた文士・吉田健一。「両手で食べるような料理は、食べ物として不便だ。片手にはビール、もう片手にはつまめる何を持つのが理想だ・・・」こう語っていたそうです、彼にとって、酒とは記憶の装置であり、忘却の鍵でした。
神保町の小高い場所に立つ小さなホテル「山の上ホテル」。アールデコ様式の建築で、多くの文士に愛されました。その中でも、強烈な存在感を放っていたのが、三島由紀夫。彼は書くために、このホテルにやって来て、作品と闘っていました。そして時折、ふらりと1階に降りて、「てんぷら山の上」へ。静けさの中で、どんな味を嚙み締めていたんでしょうか。
サラダと聞いて思い出す文学作品といえば、1987年に出版された歌人・俵万智さんの「サラダ記念日」。時代をさかのぼると、「万葉集」の有名な歌「きみがため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ」、これは、新春の若菜摘みを詠んだもの、奈良時代の人たちも、サラダにして食べていたんでしょうか?
川端康成という作家は、無口で、ただじっと視て、自分の世界を振動させながら、作品を生みしていました。一度作品を発表してからも、書き足したりを繰り返す。そんな川端の有名な小説「古都」には、かつて京都・高瀬川沿いに店を構えていた板前割烹「瓢亭」の「笹巻き寿司」が登場します。ネタは、塩をあてた鯛だけ、その美味しさに川端は?
松本清張の推理小説「点と線」に登場する 有楽町のレストラン『レバンテ』。残念ながら閉店になってしまいましたが、このお店で出されていた「牡蠣」は、三重県・志摩にある今年創業100周年の「佐藤養殖場」の「的矢牡蠣」でした。そして、『牡蠣』といえば、フランスのパリ。東のストラスブールと西のブルターニュ、点と点を結んで線になるマリアージュとは?
「食べる」「摂取」「飲む」という3つの言葉から、未来の”食”の意味を考えてみましょう!「食べる」とは「身体と文化をつなぐ行為」。「摂取」とは、「食」をデータ化した言葉です。「飲む」は、未来の食の本命かも知れません。噛まずに済む、すぐ吸収される、身体にやさしく、消化の負担もない。でも、そこに”感情”や”物語”はあるんでしょうか?未来に向かって走る今こそ、あの”ひと噛み”を、もう一度・・・。
今回の大阪・関西万博で、小山薫堂さんのパビリオンの展示を観て来ました。そこで心を打たれたのは、「一杯のコーヒーを淹れるためには、140リットルのお水が必要なんです」という言葉でした。そこでふと思い浮かんだのが禅宗の黄檗宗の人たちが作る「普茶料理」。菜食のおもてなしには「命は借りもの」という思いが込められています。
昔の大阪では、お好み焼は「洋食焼き」と呼ばれていました。日本が太平洋戦争に突入する直前の昭和10年頃のこと。もともとは、駄菓子屋さんや屋台で出されていた「一銭洋食」が「洋食焼き」に変わり、戦後、高度経済成長とともに、家庭にも鉄板文化が広がり「お好み焼」に進化して行きました。実は「恋愛にも向いている料理」ってホント?
大阪・関西万博に行って来ました。第1回は、1851年のロンドン万博、日本での開催は 1970年「大阪万博」でした。あれから55年、今年の万博では「未来の食」というイベントが開催されていました。イタリアで1909年に起こった芸術運動「未来派」。ここでも「未来の食」という試みがありました。それは、なんと「布」の手触りで「味」を感じてみようという斬新なものでした。
一両編成の只見線。これを目当てに只見に来るリピーターも多いとか。森の中をゆっくり走って行きます。昔はこの辺りで桑を育てていたそうです。そんな自然の中で「かっぱらい」といえば?
只見町の南郷トマトは、60年の歳月をかけて試行錯誤して生まれました。そんな南郷トマトを使ったトマトジュースが絶品です。実は、夏トマトと秋トマトを使ったトマトジュースがあることを発見、その違いとは?
只見町で見つけた「なめこ茸」の缶詰。よく見ると「ひらき」と「つぼみ」の2種類がありました。その美味しさの違いとは?そして、只見で感じて欲しいのは「暮らし」、そこには都会にはない”ゆったりとした時間”が流れています。
福島県の南会津にある只見町に行って来ました。自然に囲まれながらホタルが飛ぶ姿を見ました。沢を歩き、川で泳いだあと、夏目漱石の「漱石」というペンネームについて思いを馳せました。その理由は?只見では、懐かしいポン菓子にも出会いました。
オブラートって、「じゃがいも」の「でんぷん」から作られていること、ご存知ですか?小樽には、日本でも数少ないオブラートを専門に作る会社があります。「伊井化学工業株式会社」、ここでは、地元のジャガイモからとれた「でんぷん」を使って「オブラート」が作られています。小樽には蒸気機関車も走っていました。走馬灯のようによみがえる街の思い出を「オブラート」は、今も優しく包んでくれています。
昭和の初め、日本が軍国主義へと舵を切る前夜、小樽で、ひとりの若者が鉛のように重い現実を見つめていました。その若者の名前は「小林多喜二」。彼の代表作「蟹工船」には、北洋の冷たい海の上で蟹の缶詰を作る漁業船団『蟹工船』での不条理な厳しい労働の姿がリアルな言葉で綴られています。文学とは何か?それは、決してページの上だけの出来事ではないのです。
明治から大正、昭和初期の教育者で、小樽の稲穂尋常小学校の校長を務めていた「稲垣益穂」。彼は1896年から亡くなる直前の1935年まで、ほぼ毎日日記を書き続けました。全部で55冊、当時の小樽の人々の暮らしぶりを綴った彼の日記には、小樽港で朝食を食べた時の様子も、詳しく書かれています。
小樽は、かつて「北のウォール街」とも呼ばれた所。大正・昭和初期の北海道経済の中心地でした。華やかなりし頃の当時が偲ばれる建物が「旧日本銀行小樽支店金融資料館」。こには金の延べ棒のレプリカも展示されています。そんな小樽で有名な海の幸といえば「バフンウニ」、金の延べ棒よりも価値があると思うくらいの旨さです!
豊中市、池田市、伊丹市にまたがる「大阪国際空港」通称「伊丹空港」。ここの滑走路から、1967年弥生時代に埋葬された人たちが何体も見つかりました。豊中市郷土資料館に展示していあります。この辺りは弥生時代、多くの人が住むほど豊かな所だったから「豊中」という名前がつけられたのかも知れません。
大阪・豊中市と吹田市に跨る「千里ニュータウン」、1960年代に、千里丘陵に開発された街で。現在も10万人の人が暮らしています。当時は「多摩ニュータウン」「港北ニュータウン」に「アメリカン・ニューシネマ」「ニューミュージック」「ニューウェーブ 」と、「ニュー●●」が大ブームでした。
大阪大学・豊中キャンパスの名物といえば「マチカネワニ」。新しい校舎を建設している時に、このワニの化石が発見されました。7メートルを超える巨大な古代ワニ「マチカネワニ」。その全身の骨格の化石が展示してあります。豊中市の公式キャラクターも「マチカネくん」、このワニが由来になっています。
高校野球、夏の甲子園のはじまりは、大阪・豊中にあったグラウンド。ここで大正4年に、第一回全国中学校優勝野球大会が開催されました。今、豊中駅前には、それを記す石碑が立っています。今の高校球児の食生活にも思いを馳せてみました。
毎日「今日の夕飯の献立、何にしよう・・・」と悩まれている方は少なくないと思います。このように悩みはじめると我々の脳は「つまらない」「めんどくさい」と思ってしまい、結局考える事を止めてしまうのです。脳は常に刺激や楽しみを求めている臓器。そんな脳を活性化させるコツやヒントをお教えします!
戦後の子供に対する食育の歴史の中で最も大きな貢献をした方の一人が坂本廣子さんです。坂本さんのレシピ本などの著作は百冊以上に及び、またNHKのテレビ番組でも子供達に自分で食事を作る事の大切さと楽しさを教え続けました。そんな坂本さんが提唱されていた食育の一つに「ハンズ・オン」というものがあります。
フランスでは3歳の頃から「食育」が始まります。フランス人にとって「食は教養」なんですね。大切なのは「食べる順番」と「組み合わせ」、、、毎年10月にはフランス全土の学校で「味覚の一週間」という授業が行われます。どうしてフランスでは「食育」がそんなに熱心なのか、その理由は???
岩内は、北海道のスケトウダラの延縄漁業発祥の町。ホワイトアスパラを栽培し、缶詰にして発売したのも、岩内町が最初でした。そして、岩内町の海からは「海洋深層水」が汲み上げられていて、今年の春開業した岩内町の「ブカヨ珈琲焙煎店」では、この海洋深層水を使って美味しいコーヒーを淹れていました!そんな岩内町は、日本を代表する歌姫のゆかりの場所でもありました。
岩内の名産といえば「シャコ」。お寿司屋さんでは「ガレージ」とも呼ばれています。前脚にハンマーのような武器を持っていて、その力は水槽を打ち破るほど。旬を迎える6月に岩内で食べられる「シャコ」は、その「太さ」「厚さ」が段違い、味のパンチもとっても強い! でも、「握りのシャコ」頭とお尻、どっちから食べればいいの?
岩内町は、野生のホップが発見された場所。見つけたのは、アイルランド・ダブリン生まれのトーマス・アンセチル。彼は、明治政府の黒田清隆が呼んだお雇い外国人のホーレス・ケプロンの補佐としてやって来ました。そして「野生のホップを見つけて、将来輸出品になりうる」と黒田に進言しましたが認められず、上司のケプロンとも上手く行かず、ほろ苦い人生を送ることに、、、ホップ・ステップ・ビール!とは行きませんでした。
文豪・夏目漱石は、25歳から亡くなる2年前の47歳まで、北海道の岩内町に本籍を置いていました。一度も住んだことはありません。当時の日本は、日露戦争の真っ只中、徴兵制が敷かれていました。その徴兵を逃れるための方法のひとつが、屯田兵として、開拓のため北海道に本籍を置くことでした。熊本で高校教諭をしていた漱石は、もしかしたら、そのことを知っていて、本籍を北海道の岩内町に!?
1980年代の半ば、開発王と呼ばれた堤義明さんがニセコの原野に描いたのが「日本のアスペン」というビジョンでした。リゾート開発が進められる一方で変わらなかったもの、それは文学者・有島武郎が遺した畑でした。中でもゴボウは、どんどん土の中に伸びて、その美味しさは今も変わらず・・・。
ニセコには、文学者の有島武郎にちなんだ「有島米」というお米があります。有島が自らの思想を大地に、そして人間の営みに託して育てた「食べる理想」です。大正時代、「人は誰の所有物になってはならない」と信じて、ニセコに所有していた広大な農場を無償で開放し、労働の尊厳を「米」という形に託したのです。
「アスパラ」と並ぶニセコの名物といえば「ユリ根」。道の駅には「ユリ根丼」というメニューがありました。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」美しさを形容する言葉ですが、マタイの福音書にも「ソロモンの栄華もユリに如かず」と記されています。人がどんなに栄華を極めても、神が作った自然には決して叶わないという意味が込められています。
蝦夷富士とも呼ばれる羊蹄山を臨むニセコの大地には、初夏の今、天に向かってアスパラガスがニョキニョキと生えています。種から育てると芽が出るまで土の中で3年、ずっと根を張り続けているそうです。そんなアスパラにオスとメスがあるって知っていますか?オスが生えている畑にメスが芽を出すとたちまち畑は・・・。
銀座のお土産といえば、なんといっても木村屋のあんぱん。銀座の木村屋総本店に行きますと立派な看板がありますが、あの字を書いたのは幕末の剣の達人であり、江戸城を無血開城させた立役者である山岡鉄舟なのです。木村屋のあんぱんは明治天皇にも気に入られて、宮中御用達となりますが、その仲介をしたのも実はこのあんぱんが大好きだった山岡鉄舟だったといわれています。
銀座で美味しいものといえば、お寿司と並んで天ぷらではないでしょうか。天ぷらはポルトガル人がもたらした料理が日本風に変化したものと考えられています。「テンプラ」という名の元となったポルトガル語に関しても諸説あります。僕が個人的にこれが正しいのではないかと思うのは、ポルトガル語で「四旬節」という意味の「テンポラス」という単語なのです・・・
寿司の「ネタ」と言いますが、元々は「タネ」だったのが、80年代に流行った業界用語のように逆さになって「ネタ」と言われるようになったんだそうです。銀座には日本で一番美味しいといわれる有名なお寿司屋さんがたくさんあります。その理由は幾つかありますが、銀座という場所の地理的な理由も大きいと思われます・・・。※今週は、放送内容を変更してお届けします。
富山県や石川県の辺りでは「堅豆腐」と呼ばれる「枕に使える」とか「つまづいたら生爪が剥がれる」とまで喩えられるほど極めてしっかりした豆腐が作られています。地元の方はオススメの食べ方として、この地方にある甘めのお醤油とワサビで頂くというのの他に「ゴーヤチャンプルー」も挙げていました。一見不思議に思えますが、この堅豆腐のルーツを紐解いていくと、意外に納得出来たりするのです・・・。
五箇山という場所は白川郷からさほど遠くない場所にありますが、こちらは富山県。対する白川郷は岐阜県です。しかし江戸時代、この五箇山という場所は不思議な事に加賀藩の飛び地でした。実は加賀藩は江戸時代の間、この五箇山で火縄銃や大砲に使用する火薬の原材料を作っていたのです。しかし何故、前田家はこんな山奥の飛び地でそんな事をしていたのでしょう?
「分水嶺」という言葉はあの村上春樹が好んで使う、いわゆる「春樹語録」の一つです。本来は山に降った雨水が集まって異なる方向に流れていき、それぞれの水脈を形成していく分岐点を指します。分水嶺は通常、山奥にあって見ることはなかなか出来ないのですが、白川郷からさほど遠くない場所に、片方は伊勢湾に流れて太平洋へ、そして、もう片方は富山湾に流れて日本海へ、という分水嶺が存在するのです!